漢詩用語



講義に現れた用語を中心にした漢詩の用語集です。



あざな(字)
中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。 日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。
歴史的に、中国人は個人に特有の名として姓(氏)と諱(名)と字の三つの要素を持った。日本では大抵の中国人は 「姓-諱」の組み合わせで知られる。ただし例外的に「姓-字」の呼称が通用している人物もいる。伍子胥(諱は員) 、項羽(諱は籍)、諸葛孔明(諱は亮)、司馬仲達(諱は懿)、蒋介石(諱は中正)など。
例えば「諸葛-亮」は「諸葛」が姓、「亮」が諱であり、字を「孔明」という。諱は軽々しく用いられることは忌避され (そのため日本に入って「忌み名」と訓じられた)、同時代人に対しては[1]、親や主君などの特定の目上の人物だけが 諱を使用し、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼なこととされていた。逆にそういった諱で呼びかけられる 立場にある者がわざわざ字で呼びかけることは、立場とは別に一定以上の敬意を示すことになる。諸葛亮を例に取れば、 三国志演義の訳本において劉備であっても「孔明」と呼ばせているものは一定以上見受けられるが、関羽、張飛をそれぞれ雲長 、翼徳(益徳)と呼ばせているものはまずない。『礼記』曲礼篇に「男子は二十歳で冠を着け字を持った」「女子は十五歳でかんざしを着け字を持った」とあり、成人した人間の呼び名としては原則として字が用いられた。 なお、その人物が官職に就いた場合は官職名で呼ぶことが優先された(諸葛亮なら「諸葛丞相」。
丞相が官職名である)。この場合、親しい間柄以外は、字で呼ぶことは、諱ほどではないにしても少々無礼なこととされていた。 前述のとおり、字は諱を呼ばないために使うものであるので、基本的に相手に対して「劉-備-玄徳」 のように姓・諱・字を連結して呼ぶことはない。しかし文書の中では姓・諱・字を連結して書く場合がある。


あし(足)


あんしのらん(安史の乱)
安史の乱(あんしのらん)・安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、 唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。
755年、唐の節度使の安禄山が起こした反乱。反乱軍は一時都の長安を陥れ、唐は滅亡寸前まで行ったが、 安禄山が内紛で殺され、その仲間の史思明が反乱軍を指揮したので、 「安史の乱」という。ウイグルなどの支援を得た唐が立ち直り、763年、反乱軍を鎮圧し、収束された。 乱の直接的原因は、唐の玄宗の寵愛を受けた楊貴妃とそのおいの楊国忠一族と対立した節度使安禄山が反乱を起こしたことで あったが、背景には唐の律令制度の行き詰まりという社会不安があった。唐はその後も1世紀に渡って存続するが、 安史の乱以後は各地の節度使(藩鎮)が自立し、朝廷の力は弱体化した。





いけん(遺賢)
民間に埋もれている有能な人物のこと。有能な人物は、見出されて大抵政府の要職に就いていて、民間に取り残されている者 はいない、という意味。政治が良く行われていることをいう言葉。
《「書経」大禹謨から》すぐれた人物はすべて官について民間に残っていない。人材が集まって正しい政治が行われていることを いう。「野(や)」は民間の意。「のにいけんなし」とは読まない。




いん(韻)



いんようごぎょうせつ(陰陽五行説)
中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想のこと。 陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、 より複雑な事象の説明がなされるようになった。
陰陽五行説の基本は、木、火、土、金、水、(もく、か、ど、ごん、すい、金は「きん」でなく「ごん」と読ませる) の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配する。
甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、は音読みでは、 こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き、と読む。音読みでは陰陽と五行にどう対応しているか分かりにくいが、 訓読みにすると、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、となり、 五行が明解になる(かのえ、かのと、は金)。
陰陽は語尾の「え」が陽、「と」が陰である。 語源は「え」は兄、「と」は弟である。「えと」の呼び名はここに由来する。「えと」は本来、十干ないし干支の呼称だった。 きのえ、は「木の陽」という意味。
十二支にも五行が配されている。その前提として、季節に対応する五行(五時または五季)は、 春が木、夏が火、秋が金、冬は水である。土はどこへ来るかというと、四季それぞれの最後の約18日(土用)である。 有名な「土用の丑の日」は夏の最後の時期(土用)の丑の日(丑は土の五行)ということである。
各季節に十二支を配すると、
春は、一月寅、二月卯、三月辰(五行は木、木、土)
夏は、四月巳、五月午、六月未(五行は火、火、土)
秋は、七月申、八月酉、九月戌(五行は金、金、土)
冬は、十月亥、十一月子、十二月丑(五行は水、水、土)
となる(月は旧暦の暦月または節月)。
十二支の陰陽は、子から数えていき、奇数番目は陽、偶数番目は陰となる。 十干と十二支が組み合わさるとき、陰と陽の組み合わせはなく、陽と陽、陰と陰の組み合わせのみとなる。 そのため、10×12=120とはならず、半分の60通りになる。甲寅はあっても乙寅はない、乙卯はあっても甲卯はない。





うえいそつふちゅうそうさんぐん(右衛率府胄曹参軍)
長安駐在の近衛軍の武器の管理に従事する職である。





かいげんのち(開元の治)
中国唐(618年 - 907年)の第6代皇帝・玄宗李隆基の治世、開元(元年 - 29年)年間(713年 - 741年)の政治を指す。 貞観の治と並び称せられる中国史上の政治の安定期の一つで、唐は絶頂期を迎えた。しかし、 後に玄宗が楊貴妃を寵愛し政治を放棄したため唐は混乱し、安史の乱が起こったため崩壊した。




かきょ(科挙)
中国で598年〜1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年も行われた官僚登用試験である。 科挙という語は「(試験)科目による選挙」を意味する。選挙とは郷挙里選や九品官人法などもそう呼ばれたように、 伝統的に官僚へ登用するための手続きをそう呼んでいる。「科目」とは現代の国語や数学などといった教科ではなく、 後述する「進士科」や「明経科」などと呼ばれる受験に必要とされる学識の課程である。 北宋朝からはこれらの科目は進士科一本に絞られたが、試験自体はその後も“科挙”と呼ばれ続けた。 賢帝として知られる隋朝の楊堅(文帝)が初めて導入した。古くは貴族として生まれた者たちが高位を独占する時代が続いたが、 家柄ではなく公平な試験によって、才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新といえる。 しかし隋から唐までの時代には、その効力は発揮できていなかった。これが北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たち が新しい支配階級“士大夫”を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらしたが、科挙はその最も大きな要因だと言われて いる。士大夫たちは、科挙によって官僚になることで地位・名声・権力を得て、それを元にして大きな富を得ていた。 生まれに関係なく学識のみを合否の基準とする科挙ではあるが、科挙に合格するためには、幼い頃より労働に従事せず 学問に専念できる環境や、多数の書物の購入費や教師への月謝などの費用が必要とされた。そのため、実際に科挙を受験できる者 は大半が官僚の子息または富裕階級に限られ、士大夫の再生産の機構としての意味合いも強く持っていた。 ただし、旧来の貴族の家系が場合によっては六朝時代を通じて数百年間も続いていたのに比べ、士大夫の家系は 長くても4〜5代程度に過ぎず、跡取りとなる子が科挙に合格できなければ昨日の権門も明日には没落する状態になっていた。 科挙の競争率は非常に高く、時代によって異なるが、最難関の試験であった進士科の場合、最盛期には約3000倍に達することも あったという。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、おおむね36歳前後と言われ、中には曹松などのように70歳を 過ぎてようやく合格できた例もあった。無論、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって 受験を断念したり、失意のあまり自殺した鍾馗の逸話など悲話も多い。試験場でカンニングなどの不正行為が発覚すれば 死刑を含む重刑が科せられるにも関わらず、数十万字にも及ぶ細かい文字をびっしり書き込んだカンニング下着が現存するなど、 科挙が廃止されるまでの約1300年間、さまざまな手段を駆使して不正合格を試みる者は後を絶たなかった。 このような試験偏重主義による弊害は、時代が下るにつれて大きくなっていった。科挙に合格した官僚たちは、 はなはだしきは詩文の教養のみを君子の条件として、現実の問題は俗事とみなし、経済や治山治水など政治の実務や 人民の生活には無能・無関心であることを自慢するにいたり「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」 (万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。 こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となっていた。 また、太学や書院などの学校制度の発達を阻害(そがい)した面を持っていることは否めない。これに対しては、 王安石などにより改革が試みられた例もあったが、頓挫した。それ以後もこの風潮は収まらず、欧米列強がアジアへ侵略すると、 科挙官僚は“マンダリン”と呼ばれる時代遅れの存在となり、清末の1904年(光緒30年)に科挙は廃止された。




がふ(楽府)
漢詩の一形式で、古体詩の一種。その文体を楽府体(がふたい)ともいう。
前漢の時、民間歌謡の採集のため楽府という音楽官署が設立されたが、楽府において集められた歌謡そのものをさす言葉となった。 以後、民間歌謡全般を楽府と称することがあり、宋元の詞や曲も楽府と呼ばれることがあった。 文学史上のいわゆる楽府の形式は晋代以降に呼ばれるようになったもので、漢魏の古曲に基づく楽府を楽府古辞、 六朝時代の民間歌謡にもとづくものを楽府民歌といい、これらを古楽府という。
唐代になると古楽府はほとんど演奏されなくなり、古楽府の形式に沿って作られたりし、朗読される詩歌となっていった。 また中唐以降になると、白居易を始めとして新しい題(新題)を創始して楽府が作られるようになり、これを新楽府という。
北宋の郭茂倩の『楽府詩集』では漢から唐に至るまでの歌謡、または文人がその題(古題)を借りて創作したり、 その体裁を模倣して作った歌詞、新楽府が収録されている。




かんかそうどう(浣花草堂)
杜甫草堂は成都から西に5km離れており、浣花渓の畔に位置するので浣花渓堂と呼ばれています。 また少陵草堂、工部草堂という名称でも呼ばれています。敷地面積は約20ヘクタールに達する杜甫草堂は、 かつて唐の時代の「詩の聖」と呼ばれた杜甫が唐乾元2年(759年)に勃発した安史の乱を逃れるために 、現在の陝西省、甘粛省から家族を連れて、景色の綺麗な浣花渓の畔に建てた簡易的な建物(草庵)でした。 当時、杜甫はここに4年ほど住み、約240首の漢詩の創作に取り組みました。 杜甫がこの地を離れた後この草庵はなくなってしまいましたが、五代に入ると前蜀の詩人である韋庄が この跡地に草庵を造り直し、それ以来文物遺跡として保存されてきました。 元、明、清の時代にわたり幾度かの修繕や増築が行われてきましたが、 最も大規模な工事が行われたのが1500年(明弘治13年)と1811年(清嘉慶16年)に行われた工事で、 これを通して現在の杜甫草堂の規模と配置が定着し、詩人の風情を重んじる旧居、 また詩人を祭る記念的祠としても形成されました。現在では建物も古めかしく閑静な園林式博物館として 一般公開されているほかに、有名な文化聖地として1961年3月には、中国の重要文物保護財に指定されています。 杜甫の生前の名残りとして、もっとも規模の大きく完璧に保存された有名な観光スポットとなり、 国内外から多くの人々が訪れています。
杜甫草堂に保管されている各分野の資料は合わせて30000冊に上り、文化財が2000点も納められています。 そして、宋、元、明、清の時代にわたる歴代の杜甫の作品についての精刻本、謄写本などもある上、 日本語など15か国語で翻訳された詩作が多く保存されています。杜甫草堂は博物館として文物観光区域(草堂遺跡)、 園林観光区域(梅園)、サービス区域(草堂寺)に分かれています。草堂遺跡区域では照壁、玄関、ホール(客間)、 詩史堂、柴門(簡易扉)、工部祠(杜甫祠)が順に中間線に並び、両側には回廊や建造物が対称的に配置されています。 その間には水が流れ、橋で渡ることができます。さらに竹林の中に隠れて古風な風情があふれ、 静寂した雰囲気を醸し出しています。工部祠の東側にある「少陵草堂」の石碑を納められた亭が杜甫の草庵をイメージし、 「詩聖」への思いを忍ばせる記念物となり、杜甫草堂のシンボルとされています。 詩史堂は杜甫草堂を記念する祠の中心的存在で、真ん中には中国の著名彫刻家である劉開渠の制作した杜甫像が安置されています。堂内には歴代の著名人の書いた対聯、横額が陳列されています。工部祠の裏には1997年に造られた「茅屋景区」があり、杜甫の詩作の息吹きと明の時代の造園を伴い、四川省西部の民居風格あふれる田園となっています。いずれも杜甫詩人の旧居ならではの風貌を感じさせます。1999年に盆栽園に造られた「杜詩書法木刻廊」は楠の木に刻んで出来た作品の展示場で、これらの作品は杜甫博物館に収蔵されている作品の中から厳選されたもので、詩作、書道、用いられた材料等、非常に鑑賞価値が高いものになっています。また、2005年に楠木林に造られた万仏楼が高くそびえ、杜甫草堂の新たなシンボルとして注目されています。




かんがん(宦官)
 宦官とは、去勢された男子のこと。ペニスと睾丸を切除してしまうのだ。もちろん、麻酔などない時代である (書いているだけで恐ろしい…)。こんなことがなぜ行われたのか。おそらく、家畜を去勢して飼い慣らすのと同じ感覚なのだろう。 つまり、異民族の戦争捕虜をおとなしくさせてこき使ったのだ。これは最古の王朝である殷からすでにはじまっている。
 また、周の時代から刑罰として去勢が行われている。これを「宮刑」といい、死刑の次に重かった。  しかし、あろうことか、宋のころから自分で去勢手術を受ける者があとをたたなかったという。貧しい庶民にとって、 宦官になって宮廷に入ることは、一攫千金のチャンスだったからだ。
 宦官は、男子禁制の後宮(皇帝のお后がたくさんいるハーレム)での雑用がおもな仕事だった。新米宦官は、 ベテラン宦官のもとで宮廷のしきたりをたたきこまれる。宦官社会は階級が絶対で、先輩にいじめられても逆らうことができない。 しかし、どんなにつらくても、もはや一般社会にはもどれない。悲惨な境遇から抜け出すためには、 ピラミッド組織の上にのぼっていくことだ。首尾よく出世し、皇帝に気に入られれば、大臣さえあごでつかうほどの権力を 握れたのだから。
 ここで注意しなければならないのは、本来は雑役夫にすぎない宦官が、政治を左右する力を持ったのはなぜか、 ということである。それは、君主である皇帝がひどく孤独だったためである。部下や身内すら信用できない独裁君主にとって、 つねに身近にいて言うことをきいてくれる宦官はなにかと便利な存在だったのだ。
 こうして、宦官は歴史の表舞台にあらわれる。有名な宦官としては、大歴史書『史記』を著した司馬遷(しばせん)、 紙を発明した蔡倫(さいりん)、大艦隊を率いてアラビアまで行った鄭和(ていわ)があげられる。 ただし、このような立派な業績を残した者は少なく、たいていは権力欲にまみれた俗物として登場する。
 中国史の中で、とくに宦官の専横が激しかったのは後漢、唐、明である。これらの王朝では、宦官は皇帝を意のままにあやつり、 親衛隊を勝手に動かすわ、有能な政治家や軍人を追放するわ、はては皇后を殺して幼い皇帝をたてるわ、やりたい放題だった。
 こんなにひどい害があるなら宦官なんて廃止してしまえばいいのに、と思うだろう。しかし、かの三国志のヒーロー、 曹操はこう言っている。「宦官の制度は昔からあってその存在が悪いわけではない。君主が権力を与えすぎるからこんな 事態になったのだ。」
 たしかに、中国の王朝にとって、宦官は切っても切れないくされ縁だった。後漢と唐では、あまりのひどさに我慢できなく なった将軍が宮廷に乱入し、宦官を全滅させた。しかし、それと同時に、王朝そのものも滅亡してしまったのだ。




かんりんぐぶ(翰林供奉)
翰林院発足の当初は翰林待詔もしくは翰林供奉と称されていた。李白が翰林院入りした天宝元年(742)には翰林学士と 呼ぶように改められていた。李白は翰林学士に採用されたが、学士と称するのを嫌い、旧い供奉という言い方を 好んだ。翰林学士は令外(りょうげ)の官で、天子の特命に応じていろいろなことができる自由な官職であった。






きょうし(郷試)
中国古代で行われた科挙の中の地方試験である。
唐や宋の時代には「郷貢」「解試」といった。明・清代では3年に一度、すなわち子・午・卯・酉の年の8月に省城で行われた。 このため「秋?」ともいう。3年に一度の正科のほかに新帝の即位など国家の慶事があったとき、 特別に恩科と称して郷試がおこなわれることもあった。
試験の際には、朝廷から正副の主考官が派遣され、四書五経・策問(時事論述)・八股文などを試験した。 郷試の行われる場所を貢院という。合格者を挙人といい、首席合格者を解元といった。
生員・貢生・監生に受験資格があったが、過失によって罷免された官吏・街頭芸人・妓館で働く者・父母の 3年の喪が明けていない者は、受験を認められなかった。





きょくこう(曲江)
曲江は、長安城の東南にあった池の名。はじめ漢の武帝が造築し、その水流が曲がりくねっているところからこの名がついた。 玄宗のときに改修され、長安随一の行楽地としてにぎわった。





きょくこう(曲水)
水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、 盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事である。流觴(りゅうしょう)などとも称される。 略して曲水、曲宴ともいう。
中国においては、古い時代から上巳に水辺で禊を行う風習があり[1]、それが3月3日に禊とともに盃を水に流して宴を行うようになったとされる。 中国古代、周公の時代に始まったとも秦の昭襄王の時代に始まったとも伝えられている。 永和9年(353年)3月3日、書聖と称された王羲之が曲水の宴を催したが、 その際に詠じられた漢詩集の序文草稿が王羲之の書『蘭亭序』である[2]。






こうかくろう(黄鶴楼)
黄鶴楼(こうかくろう)は、現在の中華人民共和国武漢市武昌区にかつて存在した楼閣。 現在はほぼ同位置に再建された楼閣がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A5%BC

こうけいきゅう(興慶宮)
中国陝西省の古都、長安(西安市)において、唐代に造られた宮殿。唐の玄宗の時代に政務が行われたことで知られる。
現在は、建築物はなくなっており、礎石が一部残るだけである。跡地に「興慶宮公園」ができており、 阿倍仲麻呂の記念碑などがある。
長安の東端にある「隆慶坊」に位置し、唐の睿宗が皇子であった五人の息子に賜った邸宅が元となった。 当時、皇太子であった李隆基(後の玄宗)も他の四人とともに住んでいた。
玄宗が皇帝となった後、「隆慶坊」は、「興慶坊」と改められ、714年(開元2年)、坊名にちなんで、 一坊全てを「興慶宮」とする。その後、数次に渡る工事が行われ、720年(開元8年)、 宮城の南西部に突き出す形で「勤政務本楼」と「花萼相輝楼」が建造されている。 728年(開元16年)正月に、玄宗は興慶宮で政務を行うようになった。興慶宮は北にある「太極宮」、 「大明宮」と区別するため、「南内」と呼ばれた。南北1.3キロメートル、東西1.1キロメートルあり、 北側が宮殿、南側が庭園となっていた。南には、「竜池」という湖が存在し、船を浮かべることもあった。 732年(開元20年)には、興慶宮と長安の東南隅にある曲江池の付近にある離宮「芙蓉園」、 北部にある「大明宮」へとつなぐ皇帝専用の通路である「夾城」が完成している。 「夾城」は、二重城壁で挟まれた通路であり、住民たちに知られることなく、皇帝たちが移動するためのものであった。
興慶宮の正門は中国の宮殿には珍しく西側にあり、「興慶門」といった。 その内にあった興慶宮西北部にある「興慶殿」が正殿となった。その南が「大同殿」であり、横に鐘楼と鼓楼が立ち、 老子の像が祀られていた。また、「竜池」の近くには、沈香木で作られた「沈香亭」があった。 「勤政務本楼」と「花萼相輝楼」は、直接、大路に接するようにつくられた高層建築物であった。
「竜池」には、雲気がただよい、黄竜が現れ、玄宗が皇帝に即位する前兆となったという伝承があり、南側に、 竜を祀る「竜堂」や「五竜壇」があった。また、東北側に「沈香亭」があり、牡丹の名所で知られ、 玄宗と楊貴妃が花見を行ったこと、李白がこれを題材に詩を詠い、それを李亀年が歌にしたというエピソードで知られる。 近くの「金花落」に衛士の屯所があったと伝えられる。
「大同殿」は、呉道玄と李思訓の山水画が描かれたことで知られる。 「花萼相輝楼」は、興慶宮の西側にある「勝業坊」に住む兄の寧王・李憲、弟の薛王・李業 、西北の「安興坊」に住む兄の申王・李ヒ、弟の岐王・李範と親しむために、造られた (玄宗をいれるこの五人で「五王」と呼ばれていた)。玄宗は彼らを呼び、歓楽と親愛を示すと同時に、 彼らの動静を調べて遊楽に溺れているのを知り、喜んでいたと伝えられる。
「勤政務本楼」は、玄宗を政務を行う中心的な場となり、重大な儀式を行う場ともなった。 玄宗の誕生日である8月5日には、千秋節が行われ、臣下や民衆に酒や肉がふるまわれ、直接、接する春明門大街では、 様々な見世物が開かれ、多くの見物人でにぎわった。この時のエピソードとして、宮女の永新の説話が知られる。 また、100匹に舞馬が杯を口にくわえて、拝舞するという催しも行われた。
安史の乱後は、急速に衰え、皇帝の来訪もまれとなり、「竜池」も明代に耕地となっている。

こうしょろう(校書郎)
後魏時,秘書省始置校書郎,在唐朝,屬秘書省,官??从九品上,主要做文章的校?和專門典校藏書的工作。 擔任過秘書省校書郎的唐代詩人有白居易(803年)、王昌齡、李商隱、錢起、元?、李コ裕、薛隆、李端、朱慶餘等人。







こうし(高士)
人格高潔の人。官に仕えないすぐれた人物。(大漢語林)







ごじゅうげん(五十弦)
「史記」孝武本紀: 其年,既滅南越,上有嬖臣李延年以好音見。上善之,下公卿議,曰:「民鞣K尚有鼓舞之樂,今郊祠而無樂,豈稱乎?」 公卿曰:「古者祀天地皆有樂,而神祇可得而禮。」或曰:「泰帝使素女鼓五十弦瑟,悲,帝禁不止,故破其瑟為二十五弦。」 於是塞南越,?祠泰一、后土,始用樂舞,益召歌兒,作二十五弦及箜篌瑟自此起。









さんこのれい(三顧礼)
目上の人が格下の者に対して三度も出向いてお願いをすることであり、 中国で劉備が諸葛亮を迎える際に三度たずねたとする故事に由来する。 黄巾の乱の鎮圧で関羽、張飛とともに天下に名を揚げていた劉備に対して、 諸葛亮は司馬徽など一部の人にしかまだ名前を知られていなかった。 しかも劉備の40代に対し諸葛亮は20代であり社会通念上明らかな上下関係があるにもかかわらず、 それに捉われない応対をしたことから有名になった故事である。 この逸話は後世の日本にも影響を与えており、木下藤吉郎が竹中重治を配下に加えるくだりで使われている。



さんごくじだい(三国時代)
広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から、西晋による中国再統一(280年)までを指す。 狭義では後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年までを指す。最狭義では三国が鼎立した222年から 蜀漢が滅亡した263年までを指す。
229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、 中国国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』および、 さらに後世の三国時代を扱った書物によって、広く知られている。



さんだいれいふ(三大禮賦)
杜甫は、天寶の初め、進士科を受けたが、及第できなかった。天寶の末、「三大禮賦」を 献上すると、 これが玄宗の目に留まった。玄宗は、甫を召し出して文章を試した。その 結果、甫を京兆府兵曹參軍に任命した。(旧唐書)





しこうさんぐん(司功参軍)
庶務課長級か?。祭祀取り締まり、学校取り締まり、雑用取り締まり。



しし(刺史)
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。 日本では国守の唐名として使われた。 唐代に入った武徳元年(618年)に郡を廃して州とし、刺史と雍州牧を置いた。しかし天宝元年(742年)に再び郡とした。 粛宗の時代に再び州とした。



しば(司馬)
地方官の掾(じよう)の唐名。 掾は副。



しもさんれん(下三連)
各句の下の三字の平仄が同じになること。絶句においては「下三連を忌む」と称して避ける。
すなわち句の末尾を○○○(平三連)●●●(仄三連)としてはならない。ただし、「挟み平」と称する例外がある。



  しもさんれん(下三連)
各句の下の三字の平仄が同じになること。絶句においては「下三連を忌む」と称して避ける。
すなわち句の末尾を○○○(平三連)●●●(仄三連)としてはならない。ただし、「挟み平」と称する例外がある。


しゅうい(拾遺)
本義は漏れ落ちたものを拾い集めてくる意。
拾遺 (官) - 中国古代の官名。左と右に分かれる。唐の時代において品秩は従八品と決して高くないが、 皇帝に直言して失政を諫める職掌は重んじられた。詩人杜甫が任ぜられたことがある。 大宝令が定める官職「侍従」の唐名。東百官のひとつ、正遺の語源ともなった。




じょうがんのち(貞観の治)
中国唐(618年 - 907年)の第2代皇帝・太宗李世民の治世、貞観(元年 - 23年)時代(627年 - 649年)の政治を指す。 この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。 僅かな異変でも改元を行った王朝時代において同一の元号が23年も続くと言うのは稀であり、 その治世がいかに安定していたかが伺える。 この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に、「−海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」 (天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする (ほど治安が良い))との評がある。 この時代の政治は『貞観政要』(太宗と大臣の対話集)として文書にまとめられ、長く政治のテキストとして用いられた。




しょうくん(湘君)
洞庭湖に流れ込む湘江(しょうこう)または湘水という川の2人の女神で、舜の妻だった娥皇(がこう)と 女英(じょえい)のこと。2人をまとめて湘君または湘夫人とよぶこともあるが、娥皇を湘君、女英を湘夫人と呼ぶこともある。
娥皇と女英は五帝の一人である堯の娘で、舜の妻となった。帝王となった舜は四悪の追放など行った後、南方に巡行し、 蒼梧(そうご)の野に崩じた。娥皇と女英もこの征服行に従い、舜の後を追って湘江で水死し、 湘君、湘夫人という女神になったのだとされる。
湘君、湘夫人はその後は湘江が流れ込む洞庭湖の島に住み、しばしば川の淵を訪れた。 また、二人は川の流れの息吹と通じており、水を自由に操って水の渦や驟雨を引き起こす力があったという。
『史記』には、秦の始皇帝が長江から湘山にいたったとき暴風に襲われて進めなくなったが、 それこそ湘君、湘夫人が埋葬された祠(ほこら)のある場所だったという話がある。



  じょうがんのち(貞観の治)
中国唐(618年 - 907年)の第2代皇帝・太宗李世民の治世、貞観(元年 - 23年)時代(627年 - 649年)の政治を指す。 この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。
僅かな異変でも改元を行った王朝時代において同一の元号が23年も続くと言うのは稀であり、 その治世がいかに安定していたかが伺える。
この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に、「−海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、 道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い))との評がある。
この時代の政治は『貞観政要』(太宗と大臣の対話集)として文書にまとめられ、長く政治のテキストとして用いられた。







じょうしょう(丞相)
古代中国の戦国時代、秦王朝、漢王朝において、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、 元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。
古代中国では、丞相が2名置かれることがしばしばあった。この場合「右丞相」「左丞相」と呼ばれ、 王朝によってその上下関係に違いがある(王朝によって、右を尊ぶか左を尊ぶかが異なる)ものの、 一方が正丞相、残る一方が副丞相となった。なお、宦官がこの官職に就く場合は、 中人(宦官)の丞相ということで「中丞相」と呼ばれた。







しょうれいこひつ(湘霊鼓瑟)
村上哲見さんの『科挙の話 試験制度と文人官僚』(講談社学術文庫)にも紹介されいてる、銭起の逸話はどうでしょう?
中唐の詩人・銭起は浙江省の出身で、科挙を受験するため長安に向かう途中、長江南岸の京口の旅館に泊まった。 その夜のこと、月光の下で散歩をしていると、遠くからなにやら詩を吟ずる声が聞こえてくる。 どうも「曲終人不見、江上数峰青(曲終わりて人見えず、江上 数峰青し)」という二句を詠っているようだ。 銭起は急いで声のする方に近づいてみたが、誰一人どこにも人影が見えなかった。 やがて銭起は長安に到着して科挙の試験を受けてみると、詩の試験で出された詩題は「湘霊鼓瑟(湘霊 瑟を鼓す)」だった。 銭起は、ラッキーと思って、旅先の旅館で耳にした「曲終〜」の二句を、提出する詩の結びの句にして、 たちまち答案を作り上げた。そうとは知らぬ試験管は、銭起のこの詩をとても気に入ってしまって、 銭起を上位の成績で合格させた。
この話、原書では、『唐詩紀事』巻三十などに見えます。
この話で、銭起がなぜ試験場で出された詩題を見て、ラッキーと思ったのか、村上哲見さんの解説を参考にして説明すると。
まず、科挙で出題される詩の題は、『詩経』『楚辞』『文選』などの、唐代の人から見て古典に当たる文献の一節から 出題されます。この場合の「湘霊鼓瑟」は『楚辞』の一句から取られた物です。 そして、中国の古典詩は必ず偶数句で押韻しますが、科挙受験で答案として提出する詩は、出題された詩題の中の平声 (平仄の平声・仄声の平声です)の文字を押韻の字とする、というルールがあります。 平声は、大雑把に言えば、現代中国語の1声・2声に相当する音で、「湘霊鼓瑟」の四文字なら、「湘」か「霊」の音で、 受験生は答案の詩の押韻を考えないといけません。銭起が旅先で耳にした句の二句目は「青(セイ qing )」で、 まさしく「霊(レイ ling )」と同じ韻に属する字なので、やった結びの句がもう出来ている、と銭起は喜んだのです。

全唐詩 -> 卷二百三十八
《省試湘靈鼓瑟》錢起
善鼓雲和瑟,常聞帝子靈。馮夷空自舞,楚客不堪聽。
苦調淒金石,清音入杳冥。蒼梧來怨慕,白芷動芳馨。
流水傳瀟浦,悲風過洞庭。曲終人不見,江上數峰青。







しん(晋)
韓・魏・趙の独立と晋の滅亡
春秋末期、晋は事実上、范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏の5氏6家系(中行氏と智氏は、元々同じ荀氏。 また、韓氏のみ公族)の当主によって動かされるようになった。
この6家系は他の有力大夫を排除して、 六卿を世襲するようになっていた。さらに出公のときに范氏、中行氏の領地を智、趙、韓、魏氏が分割しようとしたため、 出公は怒り、斉や魯と同盟して四氏を討とうとしたが失敗し、斉へ亡命しようとしてその途中で亡くなったために (紀元前457年)、晋室は全く力を失った。
四氏のうち智氏が最も強大で、当主の智瑶は韓氏・魏氏を引き連れて、 趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤は、韓氏の韓虎・魏氏の魏駒に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」 と寝返りを促し、これに成功する。
紀元前453年、三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙、韓、魏の三者が分け合い、 それぞれ独立した(晋陽の戦い)。しかし晋は曲沃と絳の2都市を中心とするわずかな領土 (魏に取り囲まれる形だった)を守りながら哀公以下5代に渡って存続した。
紀元前403年、周の威烈王によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられたため、晋の公室と三家はこの時点で名目上の 君臣関係ですらなくなった。
紀元前376年、晋は韓魏の連合軍に攻められ陥落。 この時晋は難攻不落で攻撃軍はかなり手間取ったという。最後の君主・静公は城を出て庶民となり、晋は滅亡した。
なお、趙、魏、韓の三国を三晋と呼ぶ。




しんし(進士)
隋代の初めに科挙が開始されたが、605年に進士科が設けられた。隋・唐の時代は進士科と明経科で試験が別になっていた。 明経科では儒学の知識と時務策のみであったが、進士科ではこれに詩賦が加わった。
進士科は試験が最も難しく、1回に採られる人数は2〜30人と明経科の十分の一であったため、最も重んじられ、 地位は他の科よりも高かった。「明経科は30歳でも年寄り、進士科は50歳でも若い方」という言葉は いかに進士科が難関であったかを示している。




じんしんのらん(壬申の乱)
天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])は、日本の内乱。
日本古代最大の内乱戦争で、天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が 地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。
660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(『日本書紀』には「皇太弟」とある。 また、大海人皇子の立太子そのものを『日本書紀』の創作とする説もある)に立てていたが、 天智天皇10年10月17日(671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。 その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。 天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
12月3日(672年1月7日)、近江宮において天智天皇が46歳で崩御する。大友皇子が跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。 大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月24日)に吉野を出立した。まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。 この状況を不利と見た大海人皇子は、伊勢国に滞在し占いを行った後、伊勢神宮に参拝した。 これにより大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。続いて伊賀に入り、 ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、 現在の伊賀市柘植)で嫡男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある。) 更に伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。 美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。 これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。 美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日(7月31日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。
近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、 東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。 特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断ったのだが、大友皇子は予め使者の佐伯男に、 断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。 それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。
大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが大伴吹負が挙兵してその部隊の 指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。 この方面では近江朝の方が優勢で吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。 やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。
近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。 村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、 以後連戦連勝して進撃を続けた。7月22日(8月20日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、 翌7月23日(8月21日)に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。 翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。 近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。 また論功行賞と秩序回復のため新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。 天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。




しんれいさんみゃく(秦嶺山脈)
中国中部を東西に貫く山脈。
西は甘粛省東部から東は河南省西部に及ぶ。平均海抜は2,000-3,000メートルであり、最高峰である太白山の海抜は3,767メートル。 陝西省武功県から藍田県にわたる部分を終南山という。
トキ、ジャイアントパンダ、キンシコウなど、独特の稀少動物が生息し、ヤクタネゴヨウマツなどの独特の植物や、 野生のキウイフルーツ、カホクザンショウなども見られる。
中国人民解放軍は合計約450発(うち250発が大陸間弾道弾などの戦略核)と推定される核弾頭の大部分を、 平時は秦嶺山脈の太白山を中心とする地下トンネル網に保管している[1]。









すいしのひょう(出師表)
臣下が出陣する際に君主に奉る文書のことである。「出師」とは文字通り「師(=軍隊)を出す」ことであり、 「表」とは公開される上奏文を指す。「出師表」自体は一般的な文書名であるが、歴史上、三国時代蜀の丞相であった諸葛亮が、 皇帝劉禅に奏上したものが著名であり、特に述べられない場合、「出師表」とはこれを指す。 建興5年(227年)、諸葛亮が主君の劉禅に奉った上奏文。一般に「出師表」と言えばこの文章を指すが、 「後出師表」(後述)と区別するために、「前出師表」と呼ばれることもある。自分を登用してくれた先帝劉備に対する恩義を 述べ、あわせて若き皇帝である劉禅を我が子のように諭し、自らの報恩の決意を述べた文である。 陳寿の三国志の本文にも引用されている他、『文選』、『文章軌範』等にも収められており、諸葛亮の真作と考えられている。 古来から名文中の名文とされており「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」 (『箋解古文眞寶』の安子順の発言部分)と言われてきたほど、諸葛亮の蜀に対する忠義が如実に描写されていると言われてきた。 しかし、現代の史家の間では、「この文章を分析すると本当に諸葛亮が忠臣といえるのか疑わしい。 諸葛亮は、『自分は、先帝・劉備がわざわざ三顧の礼を尽くした特別な存在である』と強調しすぎており、不自然である。 諸葛亮が自らの政権を安定させるために自己正当化を図っているのではないか?」と、懐疑的な意見も一部にある (山口久和『三国志の迷宮』、中村愿『三国志逍遥』など)。 なお「前出師表」は、漢代の古文の文体で書かれており、この時代に確立し六朝から隋唐に流行した、 駢文の装飾的な文体とは異なる趣を持っている。この為、唐代・宋代の古文復興運動でも三国時代の文章としては 唯一重んじられていた。古文真宝・文章軌範等の詞華集にも多く採用されている。 諸葛亮が北伐(魏への遠征)に出発する前に、国に残す若い皇帝劉禅を心配して書いたという前出師表の内容は次の通りである。 まず、現在天下が魏・呉・蜀に分れており、そのうち蜀は疲弊していることを指摘する。 そういった苦境にもかかわらず、蜀漢という国が持ちこたえているのは、人材の力であるということを述べ、皇帝の劉禅に、 人材を大事にするように言う。 さらに、郭攸之・費?・董允・向寵といった面々の名をあげ、彼らはよき人材であるから、大事にしなくてはならないと言い、 あわせて後漢の衰退の原因は、立派な人材を用いず、くだらない人間を用いていたからだとも指摘する。 最後に、自分が単なる処士に過ぎなかったのに、先帝である劉備が3回も訪れて自分を登用してくれたことにとても 感謝していると述べ、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、逆賊たる魏王朝を破り、 漢王朝を復興させようとしているという決意を述べ、全文を次のように結ぶ。
臣不勝受恩感激 今當遠離臨表涕泣不知所言

原文
臣亮言
先帝創業未半 而中道崩?
今天下三分 益州疲弊
此誠危急存亡秋也
然侍衛之臣 不懈於内 忠志乃士 忘身於外者 蓋追先帝之殊遇 欲報之陛下也
誠宜開張聖聴 以光先帝遺徳 恢弘志士之気
不宜妄自菲薄 引喩失義 以塞忠諫之路也
宮中府中 倶為一体 陟罰臧否 不宜異同
若有作姦犯科 及為忠善者 宜付有司 論其刑賞 以昭陛下平明之治
不宜偏私使内外異法也

侍中侍郎郭攸之 費? 董允等 此皆良実 志慮忠純
是以先帝簡抜以遺陛下
愚以為 宮中之事 事無大小 悉以諮之 然後施行 必能裨補闕漏 有所広益也
将軍向寵 性行淑均 堯暢軍事 試用於昔日 先帝称之 曰能
是以衆議挙寵以為督
愚以為 営中之事 事無大小 悉以諮之 必能使行陣和穆 優劣得所
親賢臣 遠小人 此先漢所以興隆也
親小人 遠賢臣 此後漢所以傾頽也
先帝在時 毎与臣論此事 未嘗不歎息痛恨於桓霊也
侍中尚書 長史参軍 此悉貞亮 死節之臣也
願陛下親之信之 則漢室之隆 可計日而待也

臣本布衣 躬耕於南陽
苟全性命於乱世 不求聞達於諸侯
先帝不以臣卑鄙 猥自枉屈 三顧臣草盧之中 諮臣以当世之事
由是感激 遂許先帝以駆馳
後値傾覆 受任於敗軍之際 奉命於危難之間
爾来二十有一年矣
先帝知臣謹慎
故臨崩 寄臣以大事也
受命以来 夙夜憂歎 恐付託不効 以傷先帝之明
故五月渡濾 深入不毛

今南方己定 兵甲己足
当奬率三軍 北定中原
庶竭駑鈍 攘除姦凶 興復漢室 還於旧都
此臣之所以報先帝 而忠陛下之職分也
至於斟酌損益 進尽忠言 則攸之?允之任也
願陛下託臣以討賊興復之効
不効ば則治臣之罪 以告先帝之霊
若無興徳之言 則責攸之?允等之咎 以彰其慢
陛下亦宜自謀 以諮諏善道 察納雅言 深追先帝遺詔
臣不勝受恩感激 今当遠離 臨表涕泣 不知所云


建興6年(228年)、諸葛亮は劉禅に再び「出師表」を上奏したとされている。この時の文章は、先の「出師表」と区別して 「後出師表」と呼ばれている。しかし、この文章は『三国志』の本文では言及されず、裴松之の注釈の中で、 習鑿歯『漢晋春秋』から引用され、さらに陳寿の編纂した『諸葛亮集』にも見えず、 呉の張儼『黙記』に見えると書かれている上、歴史事実との相違点が多い。こうしたことから後世の偽作とする見方が有力である。 後出師表の内容は次の通りである。 まず、自分が先帝である劉備から、逆賊である魏を討伐するようにと言われてきたことを確認し、魏の力があまりに強大で、 自分の力はあまりにも弱く、このままの状態では蜀は魏に滅ぼされるであろうと述べる。 そして坐して滅亡を待つよりは、先手を取って魏を討滅すべきであるとする。しかし、良からぬ輩が、 自分の北伐を批判していると述べる。 このような批判に対し、6つの疑問点をあげてその批判の不当さを指摘する。 今の蜀の状況は、同じく漢中に拠った漢の高帝・張良・陳平の才能に遠く及ばない者しかいないのに、 坐して天下をとろうとするのはなぜか。 張良・陳平は、高帝に仕えた有名な謀臣である。彼らは天下を取るために、 中国中を駆けずり回った。 劉?や王朗は、自分の州郡の中にとどまり、結局孫策に敗れてしまった。 動かない蜀の様子を劉?や王朗と重ね合わせて批判する。 曹操は優れた軍略家であるが、それでも身を危ういところにおいて戦ってきた。自分のような小人物はなおさら、 危ういところに身を置かないでどうするのか。 曹操のような人物ですら、敗戦を繰り返しているのだから、自分のような小人物が戦いに負けたことをあれこれ言うのはどうか。 数年後には、あちこちから集めてきた優秀な武将や兵たちが死んでしまうのに、 優秀な者達がいる今のうちに戦わないのはどうしてか。 今、蜀は益州しか領有しておらず、経済力がない。このまま放っておけば、 経済力のより大きい魏と対抗することはできないのではないか。 さらに、時代の流れは予見しがたいとし、弱小なる蜀も魏に勝てるかもしれないとし、死ぬまで努力すると述べる。









せきしゅん(惜春)
春の過ぎ行くのを名残惜しく思う。また、過ぎ行く青春を惜しむこと。(新漢語林)







ぜっく(絶句)
漢詩における近体詩の代表的な詩型の一つ。4句から成る。
原形となる詩型は、六朝時代に作られはじめている。
時代が下るにつれて韻律の規則が次第に整備されて、唐代に入って詩型として完成された。一句が5文字の五言絶句と 7文字の七言絶句がある。起承転結の構成を持つ。
絶句は、(1)平仄の規則を厳密に適応した律絶と、(2)制約が比較的緩い古絶に分類される。(2)古絶は五言詩のみである。 (1)律絶は格律という点から言えば、律詩の前半4句に相当し、「小律詩」とも呼ばれる。




せっさたくま(切磋琢磨)
詩経-國風[衛風][淇奧] 淇奥(きいく)は、武公の徳を美するなり。 文章有り、又た能く其の規諫(きかん)を聴き、禮を以て自ら防ぐ。 故に能く入りて周に相たれば、美して是の詩を作るなり。 ・詩文 彼かの淇(き)の奥)いく)を瞻みるに、穀|(りょくち)く猗猗(いい)たり。 匪(ひ)たる君子有り、切(せつ)するが如く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如し。 瑟(しつ)たり?(かん)たり、赫(かく)たり?(けん)たり。 匪たる君子有り、終に?(わす)る可からず。 彼の淇の奥を瞻るに、穀|青青(せいせい)たり。 匪たる君子有り、充耳(じゅうじ)e瑩(じゅうえい)、會弁(かいべん)は星の如し。 瑟たり?たり、赫たり?たり。 匪たる君子有り、終に?る可からず。 彼の淇の奥を瞻るに、穀|簀(せき)の如し。 匪たる君子有り、金の如く錫(すず)の如く、圭の如く璧(へき)の如し。 寛たり綽(しゃく)たり、倚(ああ)重較(ちょうかく)たり。 善く戲謔(ぎぎゃく)すれども、虐を為したまはず。 現代語訳・抄訳 ・詩序 淇奥は、衛の武公の徳を讃えた詩である。 武公は内より滲み出る威儀がありて、よく諫めを聴き、禮を以て自らを律する明君であった。 故にその治世たるや民は安んずることができ、それを嘉して是の詩を作ったのである。 ・詩文 あの淇の川の奥まったところを見てみれば、緑に映えた竹がなんとも美しく繁っている。 その竹の如くに美なる徳を有した君子が居る、その人となりは切磋琢磨して自らを磨き上げてやまない。 厳にして寛大なり、明にして威儀あり。 斯様な君子が及ぼせし徳は、いつまでも忘れられることはないであろう。 あの淇の川の奥まったところを見てみれば、緑に映えた竹が盛んに繁っている。 その竹の如くに盛なる徳を有した君子が居る、その人となりはかの服飾の如くに威厳ありて麗しき徳で溢れている。 厳にして寛大なり、明にして威儀あり。 斯様な君子が及ぼせし徳は、いつまでも忘れられることはないであろう。 あの淇の川の奥まったところを見てみれば、緑に映えた竹の勢いたるや至れり。 その竹の如くに至れし徳を有した君子が居る、その人となりは精純にして自ずと温潤たり。 その心意は宏大にして皆と和するに至る、ああ、その車するは卿士の車なり。 善く親しまれしも、禮に背くなし。


せつどし(節度使)
藩鎮(はんちん)は中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、 地方軍と地方財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。
唐は太宗の時代に大幅に領土を広げ、その領土を都護府・羈縻政策・府兵制・鎮兵の制度をもって維持していた。 鎮兵には蕃将蕃兵が多く用いられ、主に西北方面の辺境防衛のために置かれたが、玄宗時代になると、 従来の府兵制が上手く行かなくなり、辺境以外にも藩鎮が設置された。
府兵制が行き詰まった背景としては、基になった北魏の兵制では兵の担い手が部族制の下で集団生活を行う牧畜民であったのに対して、 唐の府兵制は定住して田を耕作する農民が兵を兼ねたため、年間3ヶ月の軍事訓練が与える農業への負担が大きく、 また郷里と家族から離れて任務に就いたため士気が低く戦闘に弱かった点が挙げられる。 また、辺境への赴任は白居易の『新豊折臂翁』[1]に代表される兵役拒否も生み、負担に耐えかねて逃亡(逃戸)し本籍地を 離れた土地で貴族に囲われ奴婢となる良民もいた。節度使は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、 任地の税収を軍の糧秣と兵士の雇用に使う制度で、初めは異民族対策として西北方面を中心に10の節度使が設けられた。

安西(亀茲、兵力24000)、北庭(庭州、20000)、河西(涼州、73000)、朔方(霊州、64700)、
河東(太原、55000)、 范陽(幽州、91400)、平盧(営州、37500)、隴右(?州、75000)、
剣南(成都、30900)、嶺南(広州、15400)

節度使は安西・北庭・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。 長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが 当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。 しかし玄宗に重用された宰相李林甫は政敵の出現を恐れて、宰相になれない蕃将を積極的に節度使として登用した。 安禄山も玄宗の寵愛を受け、742年に平盧節度使となり、更に范陽・河東を兼任した。







せんにん(仙人)
仙人(せんにん)は、中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指す。 羽人、僊人ともいう。道教の不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。
仙人は基本的に不老不死だが、自分の死後死体を尸解(しかい)して肉体を消滅させ仙人になる方法がある。 これを尸解仙という。羽化昇天(衆人のなか昇天することを白日昇天という)して仙人になる天仙、地仙などがあるが位は 尸解仙が一番下である[1]。西遊記において孫悟空は「妖仙」などと蔑称されている。 神仙、真人もほぼ同義だが、用いられ方にニュアンスの違いがある。
仙人になるために修行をする者は「道士」(羽士)「方士」と呼ばれる。後世専ら、道士は道教修行者一般をさした。 方士である徐福は秦の始皇帝の命を受けて東海の仙島に仙薬を求めて出航した。 徐福は日本に逢着したともいわれ、日本各地に徐福伝説が残る。中国の軍師として知られる呂尚や諸葛亮なども仙術を 修得していたと付会された。
なお、一般に仙人といえば白髯を生やした老人というイメージがあるが、韓湘子など若々しい容貌で語られる者や、 西王母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。
また、仙人は禁欲に徹する必要があるとする伝説もあり、たとえば久米仙人や一角仙人は色欲により神通力を失っている。









だいがんとう(大雁塔)
652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。
高さは7層64mで現在は、西安市の東南郊外にある大慈恩寺の境内に建っている。 玄奘の設計により、当初は5層であった。各階に仏舎利がおさめられ、経典は上層部の石室に置かれた。 玄奘自ら、造営に携わったと伝えられる。塔の南門には(?遂良書)の筆による碑が置かれた。 当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていたために、老朽化してしまった。 そのため、長安年間(701年 - 705年)、武則天の統治時代に、全て磚でつくられ、上まで登れるようになり、 現在の7層に落ち着くという変遷を経ている。[1]この様子は、杜甫や岑参といった詩人たちによって、詠まれている。
唐時代に進士試験の合格者がここで名を記したことから、「雁塔題名」の成語も生まれた。 後に宰相になった場合、その名は朱色に書き換えられた。また、訪れるものに自分の名を書くものもあり、 唐代の詩人、李商隠の名が残っている。また、日本から訪れた円仁も登ったことがあった。
その後、熙寧年間1068年 - 1077年頃に火事に罹災し、1550年頃に重修されており、人民中国成立後にも修築されている。 現在でも、最上層まで登ることが可能である。
第1層には、仏菩薩の線刻画や、「大唐三蔵聖教序」(?遂良書)及び、高宗撰の序記の2石碑が見られる。 また、寺中には、王維や呉道玄らの絵画も収蔵されている。




だいじおんじ(大慈恩寺)
中国陝西省の古都、西安市南東郊外約4kmにある仏教寺院であり、三蔵法師玄奘ゆかりの寺として知られている。 その故地は、唐朝の都、長安城においては、東南部、左街の晋昌坊に当たる場所であった。
隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の高宗(こうそう)李治が、亡母(文徳皇后) 追善のために建立したのが、大慈恩寺である。その名は「慈母の恩」に由来する。
各地から、良材を集め建てられ、その規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、 公度僧だけで300名という大寺であった。帰朝した玄奘は、本寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事した。 当寺での、玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及び、合わせて40部余の経典が漢訳された。 玄奘の弟子である基(窺基)は、師から相承した法相宗を宣教し、「慈恩大師」と呼ばれた。
652年(永徽3年)、大雁塔が建立される。当初は、玄奘がインド・西域から持参した仏像や経典を収蔵するための塔であった (大雁塔の項を参照)。
唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていた。また、牡丹の名所としても知られ、 それを詠んだ多くの漢詩が知られ、藤も植えられていた。春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、 夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿がなり、紅葉につつまれたと伝えられる。
845年(会昌5年)の、武宗による会昌の廃仏の時には、大薦福寺・西明寺・大荘厳寺と共に、廃寺を免れた。
1550年(嘉靖29年)に、現在の大慈恩寺が建立されたといわれる。




たいじょう(太常)
秦・前漢時代 九卿の1つ。秦の中央官である奉常を起源とする。宗廟・礼儀を管轄し、丞を置いた。 前漢でも引き続き置かれ、景帝の時代に太常と改称された。
後漢時代 太常に戻されている。定員1人で、秩禄は中二千石。丞1人を置き、秩禄は比千石。属官には以下のものがある。
三国時代の各国、西晋でも引き続き太常は置かれている。




たいはくさん(太白山)
中華人民共和国陝西省の西南部、眉県・太白県・周至県の境界にある。
主峰の抜仙台は海抜3,767メートルで、秦嶺山脈の最高峰であり、中国大陸東部の第一峰。1956年から太白山を中心とする 56,325ヘクタールの自然保護区が設置され、暖温帯の生態系保護を目的としている。
中国人民解放軍は合計約450発(うち250発が大陸間弾道弾などの戦略核)と推定される核弾頭の大部分を、 平時は秦嶺山脈の太白山を中心とする地下トンネル網に保管している[1]。




だんちょう(断腸)
中国、晋の武将、桓温が三峡を旅したとき、従者が捕らえた子猿を追って母猿が百里あまり岸伝いについてきて、 やっと船に飛び移り、そのまま息絶えた。その腹をさくと腸はみなずたずたに断ち切れていたという「世説新語」 黜免?(ちゅつめん)の故事による。






ちくりんのしちけん(竹林の七賢)
3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の称。
阮籍(げんせき)
?康(けいこう)
山濤(さんとう)
劉伶(りゅうれい)
阮咸(げんかん)
向秀(しょうしゅう)
王戎(おうじゅう)
阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されている。 七人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされる。隠者と言われることがあるが、 多くは役職についており、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っている。 日本では竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっているが、 当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、?康は讒言により死刑に処せられている。 彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、 当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞される。
魏から晋の時代には、老荘思想に基づき俗世から超越した談論を行う清談が流行した。『世説新語』には、 彼ら以外の多く人物について記されているが、彼ら以後は、社会に対する慷慨の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れた。






てんかさんぶんのけい(天下三分計)
隆中策(りゅうちゅうさく)。後漢末期に諸葛亮が劉備に説いた戦略。 日本では天下三分の計(てんかさんぶんのけい)として知られる。 曹操は汝南袁氏を倒して中原地方をその支配下に治めており、中国全土の統一までは揚州の孫権、荊州の劉表、益州の劉璋、 漢中の張魯、涼州の馬超・韓遂などを残すのみとなっていた。 その頃、流浪の身であった劉備は劉表のもとに身を寄せていた。劉表が支配する荊州は、揚州と益州の中間に位置しており、 軍事的に極めて重要な地域となっていた。 このような情勢を踏まえ、諸葛亮は劉備に対し、曹操への対抗策として天下三分の計を説いた。 その内容は、劉備が荊州と益州を領有し、劉備、曹操、孫権とで中国を大きく三分割する。そして孫権と結んで曹操に対抗し、 天下に変事があった際、部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、 劉備自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより曹操を打倒し漢王朝を再興できる、というものである 赤壁の戦いの後に劉備は荊州の領有に成功し、更に214年に劉璋を降して益州の領有にも成功する。 ここに至り隆中策は実現するかに思われたが、219年に関羽が呂蒙に敗れて荊州を失陥、荊州奪還のために侵攻した劉備も 陸遜に大敗したため、計画は頓挫した。






どうし(道士)
道士(どうし)とは、道教を信奉し、道教の教義にしたがった活動を職業とするもの。 男性の道士は乾道(けんどう)、 女性の道士は坤道(こんどう)と呼ばれる。
1997年現在で、中国には2万5000人余りの道士がいた。
道士の服装は道袍と称し、中国古代の漢服の一種で、頭には古代の冠巾をかぶり、足には雲履と称する下履きを履いている。 道士は主に宮、道観、道院、廟、洞などと称する場所に住まい、そこで宗教活動を行っている。 また宗派によっても形態が異なり、全真教の道士は出家し、頭髪や鬚をのばし、髻をゆっている。 また、精進料理を食べ、修養を重んじる。一方、正一教の道士は出家しない、在家の道士で、髪を剃り、護符を書いたり、 道教儀礼を行うことを主な活動としている。






なんせんほくば(南船北馬)
中国の南部は川が多いので船を用い、北部は山や平原が多いため馬を利用して旅をした。 そういった手段を絶えず利用していることから、頻繁に旅をするという意味になった。 『淮南子』に「胡人は馬を便とし、越人は舟を便とす」とあるのに基づく。





なんぽくちょうじだい(南北朝時代)
北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。 同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、 この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、 江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、 六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、 貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。 東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。 その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。 普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。 李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。







ねんぽう(粘法)
隣り合わせの2句の2,4,6字目の平仄が互いに同じの場合を粘法といい、異なる場合を反法という。






はいこう(排行)
一族中の同世代の者(特に、兄弟・いとこ)を年齢の順序で並べた数。古くは伯仲叔季を用い、伯某仲某と呼び、 後世一般には、一(または大)二・三・−−を用いて某二・某・三などと呼ぶ。「元二」「李十二白」


はいりつ(排律)
4句からなるものを絶句といい、8句からなるものを律詩、12句以上からなるものを排律(長律)という。 律詩を引き伸ばした、五言または七言の10句以上の偶数句からなる詩体。最初と最後とを除く他の聯(れん)がみな対句をなす。


はてんこう(破天荒)
今まで人がなし得えなかったことを行うこと。天荒は、凶作、また、凶作などで雑草の生い茂ること。 荊州の地方で、毎年、科挙の合格者がなかったので、世人はこれを「天荒」と言っていたが、やがて 劉 (りゅうぜい)が合格したとき、人々が「破天荒」と言った故事。旧説では、天地未開の混沌とした 状態(天荒)を破り開く意。(大漢語林)



はんぽう(反法)
隣り合わせの2句の2,4,6字目の平仄が互いに同じの場合を粘法といい、異なる場合を反法という。






ふうゆし(風諭詩)
白楽天の生涯は四十四歳での江州左遷を境に大きく二つの時期に区分される。 前半は、身分の低い家に生まれながら奮励努力して科挙に合格し、官僚としての颯爽とした活躍をした時代だ。 その時代における白楽天の抱負は、天子の御意見番として、天下の情勢を奏上することであった。 これを白楽天は風諭詩という形であらわした。
風諭詩というのは、臣民の窮状や役人の理不尽ぶりについて、詩の形であらわしてそれを天子に読んでもらい、 政治を正しい方向に向けることを目的としたものだった。白楽天は、自分の使命はそこにあると感じて、 新楽府五十首や秦中吟十首などの風諭詩を精力的に作り続けたのであった。

ふくすいぼんにかえらず(覆水不返盆)
太公望が周に仕官する前、ある女と結婚したが太公望は仕事もせずに本ばかり読んでいたので離縁された。 太公望が周から斉に封ぜられ、顕位に上ると女は太公望に復縁を申し出た。太公望は盆の上に水の入った器を持ってきて、 器の水を床にこぼして、「この水を盆の上に戻してみよ。」と言った。女はやってみたが当然出来なかった。 太公望はそれを見て、「一度こぼれた水は二度と盆の上に戻る事は無い。それと同じように私とお前との間も元に 戻る事はありえないのだ。」と復縁を断った(出典は後秦の時代に成立した『拾遺記』による)。
この話から一度起きてしまった事はけっして元に戻す事は出来ないと言う意味で覆水盆に返らずと言うようになった。 なお、四字熟語では覆水不返(ふくすいふへん)。
中国語の「盆」(pen第2声)は日本語の「お盆」ではなく、鉢、ボウル状の容器のことである。
ちなみにこの話は太公望の数多くの伝説の一つであって、必ずしも史実とは限らない(前漢の人物である朱買臣について、 同様の逸話があることなど)。
同義の別例として"覆水収め難し"、同じ意味を表す英語の諺に "It's no use crying over spilt milk." (こぼしたミルクを嘆いても無駄) がある。

ぶこうびょう(武侯廟)
武侯祠(ぶこうし)。中国・三国時代の人物である諸葛亮を祀った廟のこと。「武侯祠」という名は諸葛亮の諡である「忠武侯」 に由来する。同名の廟が中国各地にあり、以下のものが知られている。


ふざんのうんう(巫山の雲雨)
宋玉の「高唐賦」の、楚の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と契ったという故事から》男女が夢の中で結ばれること。 また、男女が情を交わすこと。巫山の雲。巫山の雨。巫山の夢。朝雲暮雨。


ぶつこつをろんずつひょう(論仏骨表)
中国唐代の韓愈が、鳳翔法門寺の真身宝塔(阿育王塔)に秘蔵され、30年に一度のご開帳の時に供養すれば国家安泰を得るという 仏舎利の伝承を信じた憲宗皇帝に対して諌めるために上った上表文である。
古文復興運動の先駆となった韓愈の、四六駢儷文を排した名文として、また、中国における排仏論を 代表する内容として知られている。
「論佛骨表 三ノ一 臣某言、伏以佛者夷狄之一法耳。自後漢時流入中國。上古未嘗有也。 昔者、黄帝在位百年、年百一十歳。少昊在位八十年、年百歳。??在位七十九年、年九十八歳。帝?在位七十年、年百五歳。帝堯在位九十八年、年百一十八歳。帝舜及禹、年皆百歳。此時天下太平、百姓安樂壽考。然而中國未有佛也。其後、殷湯亦年百歳。湯孫太戊在位七十五年、武丁在位五十九年。書史不言其年壽所極、推其年數、蓋亦倶不滅百歳。周文 王年九十七歳。武王年九十三歳。穆王在位百年。此時佛法亦未入中國。非因事佛而致然也。  漢明帝時、始有佛法。明帝在位纔十八年耳。其後、亂亡相繼、運祚不長。宋・齊・梁・陳・元魏以下、事佛漸謹、年代尤促。惟梁武帝在位四十八年、前後三度捨身施佛、宗廟之祭、不用牲牢、晝日一食、止於菜果。其後畢爲侯景所逼、餓死臺城、國亦尋滅。事佛求福、乃更得禍。由此觀之、佛不足事亦可知矣。 臣某言う、伏して以(おも)んみるに仏は夷狄の一法のみ。後漢の時より流(つた)わりて中国に入る。上古は未だ嘗て有らざるなり。 昔者(むかし)、黄帝位に在ること百年、年百十歳。少昊(しょうこう)位に在ること八十年、年百歳。??(せんぎょく)位に在ること七十九年、年九十八歳。帝?(ていこく)位に在ること七十年、年百五歳。帝堯位に在ること九十八年、年百十八歳。帝舜及禹、年皆百歳。此の時天下太平、百姓安楽にして寿考なり。然り而(しこ)うして中国に未だ仏有らざるなり。その後、殷の湯も亦た年百歳。湯の孫太戊(たいぼ)位に在ること七十五年、武丁位に在ること五十九年。書史にその年寿の極まるところを言わざれども、その年数を推(お)すに、蓋し亦た倶(とも)に百歳を減ぜず。周の文王年九十七歳。武王年九十三歳。穆王位に在ること百年。此の時仏法亦た未だ中国に入らず。仏に事(つか)うるに因りて然るを致すに非ざるなり。 漢の明帝の時、始めて仏法有り。明帝位に在ること纔(わず)かに十八年のみ。その後、乱亡相継ぎ、運祚(うんそ)長からず。宋・齊・梁・陳・元魏より以下、仏に事うること漸く謹みて、年代尤も促(せま)れり。  惟だ梁の武帝のみ位に在ること四十八年、前後三度身を捨てて仏に施し、宗廟の祭りにも、牲牢(せいろう)を用いず、昼日一食にして、菜果に止まる。その後、竟(つい)に侯景の逼(せま)るところと為り、台城に餓死して国も亦た尋(つ)いで滅ぶ。仏に事えて福(さいわい)を求め、乃ち更に禍いを得たり。此れに由(よ)ってこれを観れば、仏の事うるに足らざること亦た知るべし。 」




ほうぜん(封禅)
帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式である。
始皇帝以前には72人の帝王がこの儀式を行ったと『史記』には伝えられている。その歴史は三皇五帝によって 執り行われたのを最初としているが、伝説の時代であるため詳細は不明である。始皇帝以後では、 前漢の武帝や北宋の真宗など十数人が、この儀式を行ったと伝えられている。








もうせん(輞川)
長安の東南に位置する藍田県にある、藍田山と嶢山の間から流れ、ハ水に注ぐ川である。王維は、 その源流の30唐里ほど南のところに、かつて宋之問が別荘としていた土地を買い上げ、自分の別荘を建てた。 近隣には多くの長安の名士たちが別荘を構えていた。これは、当時の道教と仏教の思想の融合した山間隠棲の風習にのったもので、 王維によって、その流行が促されたとされる。
王維は開元年間より住み始め、天宝9載(749年)頃にほぼ完成する。そこで、同じく別荘を構えていた銭起らと交際していた。 王維が清浄を好み、潔癖さを伝える説話も存在する。王維が友人の裴迪と交わした詩は「?川集」としてまとめられ、 20首が残っている。一貫して、清浄に対する憧憬と幽遠の表現がテーマとなっている。
王維の別荘は、北?・南?という宅院、文杏館・竹里館・臨湖亭という茅亭、華子岡・斤竹嶺という岡、鹿柴・木蘭柴という囲い、 漆園・椒園という園、辛夷塢・宮塊陌という道、孟城?という名跡、金屑泉という泉、欹湖という湖、 茱萸?・柳浪・欒家瀬・白石灘という名所があり、「?川集」に全て題材としてとられている。 これを画に写したものは「?川図」と名付けられ、転写されたものが世に流布し、唐末には各地で眺められ、 刺青として入れるもの、料理にそれを形作ったものもあったと伝えられる。






やろうじだい(夜郎自大)
自分の力量を知らずに、いばっている者のたとえ。▽「夜郎」は中国漢の時代の西南の地にあった未開部族の国の名。 「自大」は自らいばり、尊大な態度をとること。 出典『史記』西南夷伝






ようたい・おうたい(拗體)
近體詩の聲律。常格によらず、平仄に諧はぬものをいふ。絶句では第一・二の句に平起の式を用ひ、 第三・第四の句に仄起の式を用ひたもの。又、第一・第二の句に仄起式を用ひ、第三・第四に平起 の式を用いひたもの。ーーー(大漢和)





(律詩)
漢詩における近体詩の代表的な詩型の一つ。8句から成る。
原形となる詩型は、南北朝時代、南斉の永明期に活躍した沈約・謝?らの詩人によって作られはじめている。 時代が下るにつれて韻律の規則が次第に整備されて、完成されたのは唐代の8世紀前半である。
格律(句数・字数・平仄・押韻・対句といった格式や韻律のこと)の制約を厳しく受けるのでこの名がある。 一句が5文字の五言律詩と7文字の七言律詩がある。たまに六言律詩もある。
2句1組で「聯(れん)」を構成している。律詩は8句なので、4つの聯から成る。順に首聯(起聯)、頷聯(前聯)、頸聯(後聯)、尾聯(結聯) と呼ばれる。頷聯と頸聯はそれぞれの2行が対句になるという決まりがある。
また、押韻は偶数句の句末でなされ、第1句は押韻してもしなくてもよい。換韻はなされない。各字、各句、各聯同士で平仄に 一定の規則がある。




れん(聯)
2句1組で「聯(れん)」を構成する。律詩は8句なので、4つの聯から成る。 順に首聯(起聯)、頷聯(前聯)、頸聯(後聯)、尾聯(結聯)と呼ばれる。 頷聯と頸聯はそれぞれの2行が対句になるという決まりがある。



出典
(大漢和)ーーー諸橋轍次著「大漢和辭典」



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