漢詩書庫


書庫


1.漢詩を楽しむーーーーーーー玉井幸久編

2.全唐詩

3.佩文齋詠物詩選

4.史記

5.太平広記

6.世説新語

平家物語







 (本講座のテキストのデーターベース化をスタートとして、追々データーベースの蓄積を進めませんか。
古い漢詩を扱っている分には著作権問題も生じないでしょう。江戸期の詩話などもなかなか面白そうです。)


書名
講義に現れた書籍の名称を列記します。










懐風藻(かいふうそう)
現存する最古の日本漢詩集。撰者不明の序文によれば、天平勝宝3年11月[1](ユリウス暦751年12月10日~752年1月8日の どこか[2])に完成。
奈良時代、天平勝宝3年(751年)の序文を持つ。編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力である、 また他に石上宅嗣、藤原刷雄、等が擬されているが確証はない。
近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収めるが、序文には120とあり、現存する写本は原本と異なると 想像されている。作品のほとんどは五言詩で、平安初期の勅撰3詩集が七言詩で占められているのと大きく異なる。
作者は、天皇をはじめ、大友・川島・大津などの皇子・諸王・諸臣・僧侶など。作風は中国大陸、 ことに浮華な六朝詩の影響が大きいが、初唐の影響も見え始めている。
古代日本で漢詩が作られ始めるのは、当然大陸文化に連なろうとする律令国家へ歩みが反映されている。 『懐風藻』の序文によれば、近江朝の安定した政治による平和が詩文の発達を促し、多くの作品を生んだという。
なお、『懐風藻』には『万葉集』に歌のない藤原不比等の漢詩が収められており、大伴家持は、『万葉集』に漢詩を残すものの、 『懐風藻』には作品がない。大伴家持の「族をさとす歌」は、天平勝宝8歳に、淡海三船の讒言によって 大伴古慈悲が出雲守を解任された時に詠まれたものである。
序文の最後に「余撰此文意者、為将不忘先哲遺風、故以懐風名之云爾」(私がこの漢詩集を撰んだ意図は、 先哲の遺風を忘れないためであるので、懐風とこの書を命名した)とあり[1]、先行する大詩人たちの遺「風」を 「懐」かしむ詞「藻」集であることがわかる。
『懐風藻』完成の前年に死亡した詩人、石上乙麻呂の『銜悲藻』(散逸)を意識したものであるという説もある[3]。



漢書(かんじょ)
 中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。
「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権まで について書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。
『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。 『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。
『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、 比較される事が多い。
特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、 詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。
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桓譚新論(かんたんしんろん)
 漢代の思想家・経学者桓譚の著述『新論』は、29篇から成る中国最古の無神論著作の一つ。 原書は早くに戦乱で消え、現存の『新論』は、いずれも後世の学者が様々な著述から集めた輯佚本である。 本書は、清・厳可均の輯本を底本に、その他の学者の研究成果も踏まえ、哲学者・歴史家である朱?之(1899-1972)が編纂した、 最善版の『新論』輯本。1950年代に著された標点本が半世紀後の2002年、『朱謙之文集』(福建教育出版社) の一篇として初公刊され、このたび『新編諸子集成続編』シリーズの一冊として刊行された。


耆舊伝(ききゅうでん)
別名 『襄陽記』(じょうようき)『襄陽耆旧記』『襄陽耆旧伝』と呼ばれ、東晋の習鑿歯が編纂した襄陽郡(現在の襄陽市)の 地方志。割合と早く散逸したため、清の光緒32年に呉慶燾が輯本を編した。
内容は、晁公武『郡斎読書志』によれば「前篇で襄陽の人物について記載し、中篇で山川、城邑について記載し、 後篇で牧守について記載している。」としており、地元の人物伝や名勝旧跡について広く記載したものであったと思われる。 呉慶燾の輯本では「人物」「山川」「城邑」「牧守」でそれぞれ巻を分けている。
書名について、『隋書』「経籍志」に「襄陽耆旧記五巻、習鑿歯撰」とあり、『旧唐書』「経籍志」に 「襄陽耆旧伝五巻、習鑿歯撰」とあり、『宋史』「芸文志」に「習鑿歯襄陽耆旧記五巻」とある。また、 『三国志』を始めとする諸書ではしばしば「襄陽記」という名称で引用されており、書名は統一をみない 。前述『郡斎読書志』では「記載内容は雑多であり、伝記の体裁ではない」として、「襄陽耆旧伝」ではなく 「襄陽耆旧記」が正しい書名であるとしている。後代の輯本でも「襄陽耆旧記」を書名としている。



源氏物語(げんじものがたり)
平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説である。文献初出は1008年(寛弘五年)で、 この頃には相当な部分までが成立していたと思われる。
紫式部(詳細は作者を参照)の著した、通常54帖(詳細は巻数を参照)よりなるとされる[7][8]。 写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節[9]400字詰め原稿用紙で約2400枚[10]に及ぶ およそ500名近くの人物が登場し[11]、70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。 物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、 しばしば「古典の中の古典」[12][13]と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。
ただし、度々喧伝されている「世界最古の長篇小説」という評価は、近年でも2008年(平成20年)の源氏物語千年紀委員会の 「源氏物語千年紀事業の基本理念」でも、源氏物語を「世界最古の長編小説」と位置づけ[14]するなどしているが、 王朝文学に詳しい作家中村真一郎による、(古代ラテン文学の)アプレイウスの『黄金のロバ』や、 ペトロニウスの『サチュリコン』に続く「古代世界最後の(そして最高の)長篇小説」とする知見[15]や、 島内景二のように日本国内にも「竹取物語」や「うつほ物語」などがあるから最古とは認定出来ないという意見[16]もあり、 学者たちの間でも見解が異なる。20世紀に入り、英訳、仏訳などで欧米社会にも紹介され、『失われた時を求めて』など、 20世紀文学との類似から高く評価されるようになった。
母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、 才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生を描く。 通説とされる三部構成説に基づくと、各部のメインテーマは以下とされ、長篇恋愛小説としてすきのない首尾を整えている。
第一部:光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生
第二部:愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様
第三部:源氏没後の子孫たちの恋と人生
平安時代の日本文学史においても、『源氏』以前以降に書かれたかによって、物語文学は「前期物語」と 「後期物語」とに区分され[17]、あるいはこの『源氏』のみを「前期物語」及び「後期物語」と並べて 「中期物語」として区分[18]する見解もある。後続して成立した王朝物語の大半は、『源氏』の影響を受けており、 後世しばらくは『狭衣物語』と並べ、「源氏、狭衣」を二大物語と称した。 後者はその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。
こうした『源氏物語』の影響は文学に限定されず、原典成立後の平安時代末期に物語を画題とした日本四大絵巻のひとつ 『源氏物語絵巻』が制作された。その後も『源氏』を画題とした『源氏絵』は、版本『絵入源氏物語』、 また『源氏物語図屏風』等の屏風や襖などに様々な画派によって描かれた。また、『源氏物語』意匠の調度品、 さらに着物や帯の香の図(源氏香)等にもその影響がみえ、後の文化や生活に多大な影響を与えたとされている。



孝経(こうきょう)
中国の経書のひとつ。曽子の門人が孔子の言動をしるしたという。十三経のひとつ。 孝の大体を述べ、つぎに天子、諸侯、郷大夫、士、庶人の孝を細説し、そして孝道の用を説く。
『孝経』は孔子が曽子に孝について述べる、という形式を取っている。 古文は22章、今文や御注本は18章から構成され、各章の終わりには多く『詩経』の文句を引く(ただし、 朱子は詩の引用を後世の追加とみて削っている)。
親を愛する孝は徳の根本であり、「至徳」であり、上は天子の政治から下は庶民までの行動原理であるとする。 全体は短く、五経のうちには含まれていないが、古くから重要視された。
『孝経』の作者についてはいくつかの説がある[1]。 伝統的には孔子本人の作とされた[2]。これは孔子を語り手としている以上当然ともいえる。曽子を作者とする説も古くからある[3]。 これに対して曽子の門人を作者とする説は宋にはじまり、朱子『孝経刊誤』がこの説を採用している。 ほかに七十子説、子思説、孟子の弟子説などがある。清の姚際恒「古今偽書考」は、『孝経』が『春秋左氏伝』 と多く一致することから、漢代の偽作とするが、『呂氏春秋』が『孝経』を引用しているため、 先秦の著作であることは疑いえない[4]。武内義雄は、『孝経』が「天子・諸侯・卿大夫・庶人」に章を分けているのが 『孟子』の思想と一致しているとして、『孝経』が孟子と同じ学派によるものと考えた[5]。
秦の始皇帝の焚書ののち、前漢の初めに顔芝・顔貞父子によって世に出た『孝経』は、漢代通用の隷書で書かれていたために 今文孝経という。全18章からなる。今文孝経は鄭注(鄭玄かどうかは不明)がつけられた。 これに対して、漆書蝌蚪の古文字によるものを古文孝経という。漢の武帝の末に魯共王が孔氏の書院の壁から得たとも[6]、 昭帝のときに魯国の三老が献じたともいう[7]。『漢書』芸文志の顔師古注に引く桓譚『新論』によると、古文孝経は1872字あり、 今文と400字あまり異なっていた。古文には今文の18章のほかに閨門章があり、今文の庶人章を2章に分け、聖治章を3章に分け、 全22章からなるが、今文と本質的には大きな差はなかった。その後、古文孝経は梁代に散佚した。 隋代に孔安国の伝のついた古文孝経が再発見され、劉炫がこれに注釈をつけたが、劉炫による偽作であるとの噂が立った[8]。 なお、『漢書』は古文孝経については記すが、孔安国が伝をつけたとは述べていない。
唐の玄宗が、今文派と古文派の両派を討論させたが決着がつかなかったため、玄宗みずから注釈し (御注孝経の開元始注本。本文は今文系)両派の争いを収めようとした。その後、御注孝経は改訂された (天宝重注本・石台本)。宋の??の疏がある。
その後中国では御注本のみが行われ、鄭注今文と孔伝古文はともに滅んでしまった。宋代にはいり、 司馬光は秘閣で古文孝経を見ることができたが、文字は古文ではなく、伝もついていなかった。 これをもとに司馬光は『古文孝経指解』を作った。朱子の『孝経刊誤』も基本的にこの古文によっているが、 本文のうち最初の7章(今文では6章)のみが本文で、他は後の人が本文を敷衍解釈した「伝」とする解釈のもとに大胆に 本文を書きかえた。
今文については、『経典釈文』や『群書治要』などに引用されて残っているもののほかに、敦煌から発見された抄本がある。
前漢の宣帝は即位前に『詩経』『論語』とともに『孝経』を学んでいたという[9]。平帝の元始3年(西暦3年) には各学校に孝経師一人を置くようにさせている[10][11]。後漢にはいると『孝経』にもとづく緯書が多く作られ (『孝経援神契』『孝経鈎命決』など)、それらの書では『孝経』を『春秋』と並べて重視した[12]。
南北朝時代の南斉では鄭注本の今文を教科書に採用した[13]。敦煌文書も大部分は今文系である[14]。
唐代には前述のとおり玄宗御注本が行われたが、御注は孝を国家の政治道徳へと転換し、家族的な孝を君に移して忠と すべきことを強調した[15]。
朱子『孝経刊誤』は朱子の名声によって後世への影響が強く、朱子本を元にした元の董鼎『孝経大義』は日本でも大いに流行した。
日本では古くから『孝経』が重視された。美努岡万墓誌(728年ごろ)に古文孝経をもとにした文章が使われている[16]。 また、胆沢城から発見された『孝経』の漆紙文書は奈良時代中期・後半のものとされる[17]。
養老令には学生が『論語』と『孝経』を学ぶべきことを述べている。『日本三代実録』によると、貞観2年(860年)には 御注本を正規の『孝経』としたが、なお孔伝古文の使用も許されていた。後に清原家が孔伝を家本とし、 孔伝古文が公式に採用された。このため、中国と異なり、日本では孔伝古文が滅びなかった。
なお、鄭注今文については、『日本国見在書目録』に孔伝と鄭注がともに見え、永観元年(983年)に奝然が北宋の太宗に 鄭注本を献上した記録があることから[18][19]、中国より遅くまで残ったようだが、現存しない。
古文孝経の古いテキストとしては建久6年(1195年)の奥書をもつ猿投神社蔵本や、仁治2年(1241年)の 奥書をもつ清原教隆校点本(内藤湖南旧蔵、現杏雨書屋蔵)をはじめとして、多くの抄本が日本に残っている。 『時慶卿記』によると、文禄2年(1593年)に朝鮮から銅活字がもたらされたときに古文孝経を印刷したというが(文禄勅版)、 実物は現存しない。 慶長4年(1599年)の古活字版古文孝経(慶長勅版)は現存する[20]。
江戸時代には中江藤樹が特に『孝経』を重視した[21]。 太宰春台は享保6年(1721年)に『古文孝経孔氏伝』を校訂出版した。これが中国に逆輸入されて『知不足斎叢書』 にはいったが、清の学者はこれを日本人による贋作と考える傾向が強かった[22][23]。
隋に古文孝経が再発見されたときに劉炫がつけた注釈である『孝経述義』も日本に1・4巻が残されているのを武内義雄が発見した。林秀一はこれを元に他の巻も復元した。林はまた敦煌本をもとに鄭注今文孝経も復元した。 林秀一はこれを元に他の巻も復元した。林はまた敦煌本をもとに鄭注今文孝経も復元した。
今文(御注本もおなじ)と古文では章の分けかたが異なるだけでなく、応感章の位置が異なる。 朱子の『孝経刊誤』は、全体を経と伝に分け、伝は順序を大幅に入れかえている。
「博愛」は『孝経』を出典とする言葉である。ただし現代とは意味が異なり、親への愛を親以外の人間にも及ぼすことをいう。 冒頭の開宗明義章の「身体髪膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。立身行道、揚名於後世、以顕父母、孝之終也。」 はとくに有名であり、前半は『千字文』の「蓋此身髪、四大五常。恭惟鞠養、豈敢毀傷。」に使用されているし、 後半は「身を立て名を揚げ」という「仰げば尊し」の文句に使われている。
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後漢書(ごかんじょ)
中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。 成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。
范曄は字は蔚宗と言い、幼い頃から学問に長じ、経書に通じて文章・音楽を良くしたという。 宋の創始者・劉裕に仕えて尚書吏部郎となったが、左遷されて宣城太守になり、在任中の432年(元嘉9年)、 『後漢書』を著した。ただし范曄が執筆したのは本紀と列伝のみである。志については、范曄が後に文帝の弟、 劉義康擁立の事件に関ったことで処刑されたので書かれていない。後に南朝梁の劉昭は、范曄の『後漢書』に、 西晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けた。このため現在伝わるのは、 後述の李賢注と劉昭注の『続漢書』の志を合刻した北宋時代の版本に基づくものである。
范曄著『後漢書』の成立は既述の通り、432年と後漢滅亡から200年以上が経ってからのことであり、 年代的には『後漢書』より後の時代の範囲を記述している『三国志』の方が、范曄の『後漢書』よりも約150年も前に 既に成立していた。後漢滅亡から200年余りの間に後漢についての歴史書を数多くの史家が著している。 後漢がまだ存続していた時から書かれた同時代史書である『東観漢記』、東晋の袁宏の『後漢紀』など。 その他にも数多くの史書が存在していて、これを八家後漢書(あるいは七家)と呼んでいる。
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五経(ごけい・ごきょう)
五経(ごけい・ごきょう)または六経(りっけい・りくけい)は、儒教で基本経典とされる5種類または6種類の経書の総称。 すなわち『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』の六経から、はやく失われた『楽』を除いたものが「五経」である。 すべて孔子以前からの書物であるが、伝統的な儒教の考えでは孔子の手を経て現在の形になったと考えられている。
ただし、実際に五経として読まれる書物の内容は時代によって異なっており、また孔子以後の儒家たちの注釈である「伝」 を含めた形で読まれた。
現行のいわゆる五経は、唐代の『五経正義』以来の『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』である。
これらの書物がどのように儒家の経典となっていったのかはっきりとした過程はわからない。 『論語』を読んではっきりとわかることは、孔子の杏壇においては『詩』と『書』を学んでいたことだけである。 『春秋左氏伝』によれば、当時の使者たちが『詩』を外交に用いていたことが分かり、 これらを学んでいたのは孔子たちだけではなかったことが伺える。また『論語』では雅言(共通語のことと考えられている) について「『詩』『書』執礼」で用いていたとあり、礼に関する経典があったかはともかく、 儀礼の教育もあったことは確かであろう。また「五十にして以て『易』を学ぶ」というくだりがあり、 後に『易』が儒家経典とされる素地があった。『論語』の記述に、春秋以外の詩書礼楽と易が現れており、 後にこれらの編纂に孔子が関わったとする根拠となった。『春秋』については『孟子』において魯の史書とされるとともに、 孔子が作ったとされている。
これらの書が経としてまとめられたのは戦国時代末期、荀子のころと思われ、 『荀子』勧学篇には礼楽・詩書・春秋と併記されている。ただし、荀子にも「五経」や「六経」という言葉は見えず、 『荘子』天下篇に孔子が老子に述べた言葉として「丘は詩書礼楽易春秋の六経を治む」を初出とする。
このように六経としてまとめられたのであるが、秦の始皇帝による焚書坑儒や楚漢戦争によって書物の伝承が途絶えそうになった。 しかし、一部の経師たちが口頭で伝承したり、竹簡を隠すことによって漢代に経書を伝えた。 この時『楽』は失われて、残りの五経が武帝の時、学官に立てられた。これがいわゆる五経博士である。 なお『礼』として立てられたのは現在の『儀礼』という書物であり、礼の「士礼」部分のみしか伝わらなかったと言われる。 その一方で民間に眠る失われていた書物の採集が行われた。これらは当時の隷書(今文)ではなく、古い文字、 いわゆる古文でかかれていて、「古文経」と呼ばれるが、当時、学官に立てられていた経書(今文経)とは違う 系統のテキストであった。これにより今文を掲げる学者と古文を奉じる学者による闘争が起こり、前漢末、新には劉?によって 『春秋左氏伝』『毛詩』『逸礼』『古文尚書』といった古文経に学官が立てられた。 しかし、新は後漢王朝によって倒され、新を否定するという政治的な理由から後漢では再び今文経に学官が立てられた。 しかし、在野で力を付け、優れた学者たちを輩出した古文学者たちに押されて今文経学は衰退し、 魏晋南北朝を経て唐代になると古文経の優位が確定し、唐朝が勅撰で作った五経の注釈書『五経正義』では古文系統の テキストが採用され、現在に至っている。




山海経(さんがいきょう)
 中国の地理書。中国古代の戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、 最古の地理書(地誌)とされる。
『山海経』は今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、「奇書」扱いされている。 著者は禹の治水を助けた伯益に仮託されるが、実際は多数の著者の手によるものと考えられる。 劉?が漢室にたてまつった際には18編、『漢書』「芸文志」では13編。『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、 『旧唐書』「経籍志」では18巻。『日本国見在書目録』では21巻としている。現行本には、西晋の郭璞の伝を付しており、 5部18巻。各地の動物、植物、鉱物などの産物を記すが、その中には空想的なものや妖怪、神々の記述も多く含まれ、 そこに古い時代の中国各地の神話が伝えられていると考えられている。そのため、後世失われたものの多い中国神話の 重要な基礎資料となっている。河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている。山経5書は、時代を追って成立した 本書の中でも最古の成立であり、儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で貴重な地理的資料となっている。 洛陽を中心としている所から、東周時期の成立と推定される。 もともとは絵地図に解説文の組み合わせで、『山海図経』と呼ばれたが、絵地図は失われ、後世に解説文を頼りに想像で 挿絵をつけた。日本へは平安時代に伝わり、江戸時代には刊本として流通していた。
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三国志(さんごくし)
三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。
「三国志」とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇した、三国時代の歴史を述べた歴史書である。 撰者は西晋の陳寿(233年 - 297年)(詳しくは『三国志 (歴史書)』を参照)。
後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、
その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まった。


  三国志演義(さんごくしえんぎ)
明の時代に書かれた中国の歴史小説で、四大奇書(しだいきしょ) の一つに数えられます。 四大奇書とは、中国で元代-明代に書かれた四つの優れた長編小説のことです。 「奇書」とは「世に稀なほど卓越した書物」の意味です。 奇妙な書ではありません。 日本では四大奇書といえば『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』 の四つを指しますが、 『金瓶梅』の代わりに『紅楼夢』を入れる説もあります。三国志演義は施耐庵 、あるいは羅貫中が三国時代に関する 講談をもとに創作されたとされています。三国志演義は小説なので、はなしをおもしろくするために信憑性とはべつに ストーリーを組み立てています。 そのため内容のすべてが正しいとは限りません。 また三国志演義の作者は蜀を正統な国としているのでかなり蜀びいきです。 そのため蜀の主役であった諸葛亮孔明のすごさを少し誇張表現しているかもしれません、ていうかかなり誇張表現しています。 諸葛亮孔明より司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)のほうが凄かったなんていう人もいるくらいです。


 

史記(しき)
中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。 正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ) であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。 「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、 叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、 わけても正史記述の雛形となっている。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。


詩経(しきょう)(詩経)
中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。 儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文) と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。
西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、 当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。 孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子自身が詩句を引用していることから、 その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。
現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、 『毛詩』と呼ぶことも多い。または詩三百・詩三百篇・或いはただ単に三百篇・三百五篇・三百十一篇とも呼ばれる。
四書(ししょ)(詩経)
儒教の経書のうち『大学』『中庸』『論語』『孟子』の4つの書物を総称したもの。 四子(しし)・四子書(しししょ)とも言われる。
南宋の儒学者朱熹が『礼記』中の「大学」「中庸」2篇を単独の書物として『論語』『孟子』と合わせ、 儒教創始期の4人の代表人物、曾参・子思・孔子・孟子(略して孔曾思孟)に関連づけて『四子』または『四子書』と呼んだ。 その略称が『四書』である。朱熹は四書を五経に学ぶ前の入門の書物としている。 『礼記』のうち曾参の作とされた「大学」と子思の作とされた「中庸」を特に取り上げる立場は宋代以前でも韓愈など道統を 重視する学者に見られ、北宋でも程頤・程顥(二程子)ら道学者が特にこれらを重視した。これを受けた朱熹は四書に対する 先人の注釈を集めた『四書集注』を編んだ。
元朝以降、官吏登用試験である科挙の科目とされたので、独自の地位を獲得して「四書五経」と併称されるまでに至った。
大学
伝説上、孔子の弟子曾参(紀元前505年 - 紀元前434年)の作とされた。唐代の韓愈・李?らの道統論によって持ち上げられ、 北宋の二程は「大学は孔氏の遺書にして初学入徳の門」と称した。二程の思想を継承する南宋の朱熹は『大学』を 『礼記』から取り出して、『論語』『孟子』に同列に扱って四書の一つとし、二程の意を汲んで、 四書の最初に置いて儒学入門の書とした。儒家にとって必要な自己修養がいわゆる三綱領八条目の形で説かれているという。
中庸
もともと『礼記』中の1篇。『史記』孔子世家が「子思は「中庸」を作る」とすることから、孔子の孫、 子思(紀元前483年 - 紀元前402年)の作とされる。唐代の韓愈・李?らの道統論によって持ち上げられ、 北宋の二程は「中庸は孔門伝収授心の法」と称した。二程の思想を継承する南宋の朱熹は『中庸』を『礼記』から取り出して、 『論語』『孟子』に同列に扱って四書の一つとした。現在では秦代の儒者の手になるとするのが一般的である。
論語
孔子と弟子たちの言行録である。孔子の弟子たちの手によって整理された。漢代には今文系統のテキストに 「魯論」20篇「斉論」22篇があり、古文系統のテキストに「古論」21篇があったという。 後漢の張禹は「魯論」を中心に同じく今文の「斉論」と校合して作った「張侯論」を作り、 さらに後漢末の鄭玄がこれを「古論」と校合して作ったのが現行の『論語』とされる。
『孟子』
孟子(約紀元前372年-紀元前289年)とその弟子たちの言行録。『漢書』芸文志以降、『孟子』は諸子略や子書、 すなわち諸子百家の書に挙げられており、経書として扱われていなかった。孟子は長らく評価されない書物であったが、 唐末、宋代の道統論によって取り上げられ、朱熹によって四書に『孟子』を入れられたことで現在のような経書としての権威を 確立した。


書経(しょきょう)
 尚書(しょうしょ)とも言う。政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した 演説集である。また一部、春秋時代の諸侯のものもあり、秦の穆公のものまで扱われている。
甲骨文・金文と関連性が見られ、その原型は周初の史官の記録にあると考えられている。儒教では孔子が編纂したとし、 重要な経典である五経のひとつに挙げられている。
古くは『書』とのみ、漢代以降は『尚書』と呼ばれた。『書経』の名が一般化するのは宋代以降である。
現行本『書経』58篇のテキストは「偽古文尚書」であり、その大半は偽作されたものである。


 貞観政要(じょうがんせいよう)
唐代に呉兢が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。 全10巻40篇からなる。
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  春秋左氏伝(しんじゅうさしでん)
孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。 通称『左伝』(さでん)。『春秋左伝』、『左氏伝』ともいうことがある。
現存する他の注釈書として『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれている。三伝の中で、 左伝は最も基本的だとされている。
『左伝』の作者は、魯の左丘明であるといわれているが、定かではない。一説には、古くからあった史書を前漢の劉?が 「春秋左氏伝」と改めて左丘明の著として宣伝し、自らが擁立していた王莽の漢王朝乗っ取りの根拠にしたのだという康有為らの 有力な異説があるが、これも立証されているわけではない。
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西京雑記(せいきょうざっき)
中国の歴史故事集。晋の葛洪 (かっこう) の編。前漢末の劉きんが原著者といわれるが確かではない。 6巻。西京とは前漢の都長安をさし,王昭君の故事など,前漢における有名人の逸話,宮室,制度,風俗などに関する エピソードを簡潔な文章で記録したもの。



世説新語(せせつしんご)
中国南北朝の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集。 今日『四部叢刊』に収めるものは上中下三巻に分かつが、テクストによってその巻数は二、三、八、十、十一等の異同がある。 『隋書』「経籍志」によれば、もとは単に『世説』と称したようであるが、『宋史』「芸文志」に至ってはじめて 『世説新語』の称が現れた。『世説新書』とも呼ばれる。

全唐詩(ぜんとうし)
清・康熙帝の勅命により、彭定求らが編纂した、唐詩のすべてを収載した奉勅撰漢詩集。900巻、目録12巻、補遺6巻、詞12巻。
http://ctext.org/quantangshi/zh




楚辞(そじ)
中国戦国時代の楚地方に於いて謡われた詩の様式のこと。またはそれらを集めた詩集の名前である。全17巻。 その代表として屈原の『離騒(中国語版)』が挙げられる。北方の『詩経』に対して南方の『楚辞』であり、 共に後代の漢詩に流れていく源流の一つとされる。また賦の淵源とされ、合わせて辞賦と言われる。
書物としての『楚辞』の成立は前漢末期の劉向の手によるものであるが、これは散逸しており、現行の『楚辞』はそれに後 漢の王逸が自らの詩を合わせた『楚辞章句』が現在伝わる最古の『楚辞』である。
十七巻で構成され、この内、「離騒」「九歌」「九章」「遠遊」「招魂」が屈原の作であり、「天問」「卜居」「漁父」「九辯」 「大招」が宋玉ら戦国楚の詩人によるもの。「惜誓」・「招隠士」・「七諌」・「哀時命」は前漢の賈誼によるもので、 「九懐」は同じく前漢の王褒、「九歎」は劉向、「九思」が王逸の作である。
注釈本として前述の通り、最古のものは『楚辞章句』であるが、北宋の洪興祖の『楚辞補註』が『楚辞』を読む際の基本であり、 他に朱熹による『楚辞集註』がある。
詩の様式としての楚辞は六言ないし七言で謡われ、元は民謡であり、その源流は巫の歌にあると言われている。 中国北方の文学に対して非常に感情が強く出ており、音律を整えるためのものである兮の字が入ることが特徴 (文章としての意味は無い)。





日本書紀(にほんしょき)
奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、 養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻。 系図1巻が付属したが失われた[1]。
『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、 加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四?二十一、巻第二十四?二十七)と β群(巻第一?十三、巻第二十二?二十三、巻第二十八?二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文の α群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文である β群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している[20]。 またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと 推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、 乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、 元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる。
『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずるとしている。しかし、 『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため538年(宣化3年)と 推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように、 『日本書紀』には改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている。


 白氏文集(はくしもんじゅう)
中国唐の文学者、白居易の詩文集。数次の編集を経て、最終的に75巻本として会昌5(845)年に完成、 現在は71巻本が通行する。最初のものが長慶4(824)年に成り、『白氏長慶集』と名付けられたため、 後世もその名を以て呼ばれる。白居易自身は『文集』とのみ称した。
白居易は有能な官僚であり、詩のほか策林(政治問題を論ず)、百道判(官僚の裁決模範集)、制誥(詔勅)、奏状、 墓誌銘など史料的価値の高いものを多く残している。また新楽府・秦中吟などの諷論詩には、 当時の社会問題を反映したものが多い。白居易が親友である元?に送った書によれば、 自身の詩を諷論・閑適・感傷・雑律に分類し、特に民衆の生活苦などを描き、詩による為政者への諷諫を目的とした諷論詩に 重きをおいたという(巻28「元九に与うる書」)。


 枕草子(まくらのそうし)
平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆されたと伝わる随筆。 ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、 鎌倉時代に書写されたと見られる現存最古の写本・前田本の蒔絵の箱には『清少納言枕草子』とある。 古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称した。


 万葉集(まんようしゅう)
7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、 防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。
日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、 さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。



 文選(もんぜん)
中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による 賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。
隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、 昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。
http://www.guoxue.com/jibu/wenxuan/wx_ML.htm

  
 列 子(れっし)
春秋戦国時代の人、列御寇(河南鄭州人)の尊称(「子」は「先生」というほどの意)だが、一般的には、 列御寇の著書とされる道家の文献を指す。別名を『冲虚至徳真経』ともいう。
列御寇は、先秦の書物に紀元前400年の前後70年に生存したとあるものの、『史記』にはその伝記はなく、 その実在を疑う向きもある。
『荘子』等の内容を引くなど、古来より単独の著者により記述されたものではないと見られている。 現存の8巻には仏教思想も含まれており、この部分はのちに混入されたともいうが、 現存本は魏晋代以降に成立した偽書であるとの説も根強い。  

  
 和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)
藤原公任が漢詩・漢文・和歌を集めた詩文集である。寛仁2年(1018年)頃成立した。 『倭漢朗詠集』、あるいは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる。
もともとは藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、 のちに公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた。 達筆の藤原行成が清書、粘葉本に装幀し硯箱に入れて贈ったという。
国風文化の流れを受けて編纂された。往時、朗詠は詩会のほかにも公私のさまざまの場で、 その場所々でもっともふさわしい秀句や名歌を選んで朗誦し、その場を盛り上げるものとして尊重されていた。 こうした要請に応ずる形で朗詠題ごとに分類配列し撰じたものである。。
上下二巻で構成。その名の通り漢詩および漢文588句(多くは断章、日本人の作ったものも含む)を主とし、 それに和歌216首を合わせたものである。和歌の作者で最も多いのは紀貫之の26首、漢詩では白居易の135詩である。 『古今和歌集』にならった構成で、上巻に春夏秋冬の四季の歌、下巻に雑歌を入れている。
漢字と仮名文字の両方で当時の流行歌が書いてあることから、寺子屋などで長年読み書きの教科書としても用いられた。 宋に渡った日本の修行僧が寺に入山するときにも納めている。 また、イエズス会によって出版されたキリシタン版の上巻が、スペインのエル・エスコリアル修道院に残っている。

  



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Last modified 2014/08/13 First updated 2014/04/28