漢詩人物
漢詩の作者、漢詩に現れる人物など、漢詩に関係のある人を紹介します。
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あ
阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ)
文武天皇2年(698年- 宝亀元年(770年)1月)奈良時代の遣唐留学生。中国名は仲満のち晁衡/朝衡(ちょうこう)。
筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。
唐で科挙に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。
文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。
霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。
同次の留学生には吉備真備や玄昉がいた。
唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕える。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、
神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。
仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、
『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。
天平5年(733年)多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。
翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。
この時帰国した真備と玄昉は第1船に乗っており助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、
一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、
中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で
日本に帰国することができた。 天平5年(734年)には儀王友に昇進した。
天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。
すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。
この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。
しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、
「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。
『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』
実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、
幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。
結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。 この年、安禄山の乱が起こったことから、
清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を
認めなかった。仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から
鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)
まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。
最後は?州大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に
73歳の生涯を閉じた。
なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と賞されている。
また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている。
(参考)
独創古代5
安 禄山(あん ろくざん)
唐代の軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。
「禄山」はソグド語の「ロクシャン(rwx?n/rox?(a)n 明るい・光の意味)」の音訳。唐の玄宗に対し安史の乱を起こし、
大燕皇帝に即位したが、最後は太子の安慶緒に殺害された。
『新唐書』巻225上 安禄山伝などによると、「軋犖山」という名の突厥の軍神に巫女であった母が祈ったところ、
穹廬(ゲルなどのテント)を光が照らして懐妊し、野獣はことごとく鳴くなど祥瑞が現れた、
と出生に関わる奇瑞譚が載せられている。また、当時、節度使であった張仁愿がこれを知り殺そうとしたが、
なんとか逃れることができたという伝承もある。
父は早くに亡くなったが、母はその後に突厥の有力者である安延偃と再婚した。安延偃には唐に仕えて「胡将軍」
と呼ばれていた安波注という弟がおり、安波注とその息子たちは唐と突厥の双方に仕えたソグド人軍閥の有力者の一門であった。
安禄山は突厥や契丹、奚などの諸勢力が混在する地域に育ったせいか「六蕃語」、6ヶ国語に堪能であったため、
初め互市牙郎(貿易官)に任じられた。ずる賢く、残忍で、機転が効き、人に取り入るのに巧みであったと伝えられる。
開元20年(732年)、幽州節度使・張守珪に取り立てられた。勇猛さと地理を熟知していたことにより、
同郷の史思明とともに数騎で出ていき、必ず数十人を捕らえてきた。その後も勝利を重ね、そのため偏将に任じられた。
この頃、張守珪の養子となる。開元21年(733年)、唐の都である長安に奏上文を届けにいく。
この時、安禄山に会った宰相の張九齢は、「幽州で反乱が起きるとするならば、この胡人が起こすだろう」と語ったと伝えられる。
天宝10年(751年)、誕生日に玄宗と楊貴妃から多くの贈り物を贈られる。入朝して楊貴妃の赤子を演じ、
おむつをして大きな揺り籠に入って出てきて、玄宗を喜ばせ、宮中に自由に出入りするようになる。
更に詳しくー>ここ
い
え
永王 璘(えいおう りん)
? - 757年、第9代皇帝である玄宗の16子で第10代皇帝粛宗の異母弟。母は郭順義。生母は幼時に死去したため、
異母兄の粛宗に養育された。容貌が醜く斜視だったが、聡明で学問好きで、開元13年(741年)、永王に封じられる。
宮中で育ったため、人事に疎かった。
安史の乱が起こると、天宝15載(757年)、玄宗[1]に命じられ、江南・山南・嶺南などの4道節度使兼江陵大都督に任命され、
江陵に赴任する。
江陵には、江南からの租賦が充満しており、数万の募兵を集め、永王は独占し、半独立した政権を築く。
さらに、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗、蔡?の進言に従い、江南に自立し、唐王朝から次第に離脱を図るようになった。
霊武にいた兄の粛宗は、すでに即位しており、この報告を聞き、永王に勅使を派遣して父の玄宗に謁見することを命じたが、
永王は勅命を聞かなかった。永王の子である襄城王?が勇敢で力があったため、軍を握った。襄城王?は反乱を考え、
金陵を奪うように勧めたと伝えられる。永王は5,000人の兵を率い、季廣?、渾惟明、高仙琦を将に任じた。
永王の長史であった李?は、病気を理由として辞職し、粛宗のもとに赴いた。粛宗は、高適を、彼とともに永王の件を謀らせる。
高適は情勢を分析し、永王が必ず敗北すると語った。粛宗は、高適を淮南節度使、来填を淮南西道節度使に任命し、
江東節度使である韋陟ともに対処を命じる。
独断で兵を率いて、長江に沿って東に赴いた永王を呉郡太守兼江南東路采訪使である李希言が書面でとがめると、
永王は渾惟明を派遣して、李希言のいる呉郡を攻撃させる。また、武将の季廣?に命じて、広陵を攻撃した。
渾惟明は、李希言に命じられ丹陽を守った元景曜と閻敬之を破る。閻敬之は戦死し、元景曜は降伏した。
季廣?も広陵長史・淮南采訪使の李成式に命じられて防戦を行った李承慶を降伏させる。
高適、来填、韋陟は軍を安陸に集め、永王の討伐を誓う。
757年、肅宗は宦官の啖廷瑤を派遣して、李成式と謀らせて河北招討判官の李銑と兵を合わせて、永王に向かわせる。
永王は対岸に軍を並べる。李成式は判官の裴茂に旗を長大に並べさせたため、永王は恐れるに至る。
そのため、季廣?、渾惟明、馮季康、康謙は逃亡してしまい、永王は、制止することはできなかった。
李成式の軍は篝火も盛大に並べたため、永王の軍は篝火を焚く。永王はこれを見て、唐軍が河を渡ったと思い、家族や配下とともに逃亡する。夜明けとともに、唐軍が河を渡っていないことが判明したため、軍を率い、船に乗って晋陵へと逃亡する。
唐軍の間諜が永王の逃亡を報告し、李成式の将、趙侃が河を渡ったため、永王は息子の襄城王?と武将の高仙琦に
命じて攻撃させる。趙侃は迎え撃ち、李銑が援軍に来て、襄城王?は矢を受け、軍は壊滅する。永王は高仙琦ら残兵とともに、
南方に逃れる。大?嶺にて、江西采訪使・皇甫?が遣わした兵に敗れ、襄城王?は戦死し、永王は戦いの最中に矢に当たったために捕らえられた。このとき兄の粛宗は永王を避難先の蜀に送るように命じたが、皇甫?自身の判断で永王はそのまま斬られた。薛鏐らも皆、殺された。
同時に永王の幕僚だった李白も連坐されたが、後に解放された。
皇甫先は永王の家族を蜀に帰したが、独断で永王を殺したために、粛宗に罷免された。
越王勾践(えつおうこうせん)
(? - 紀元前465年)は、中国春秋時代後期の越の王。
范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。
句践とも表記される。越王允常の子で、楚の恵王の外祖父にあたる。
紀元前496年、越を強勢に築き上げた父の允常が逝去すると、太子勾践が後を継いだ。
宿敵の允常の訃報を聞いた呉王闔閭は喪中に服した越を滅ぼすべく大軍を率いて攻め込んだ。
しかし、?李(現・浙江省嘉興市)で、范蠡の奇策によって呉軍は大敗し、
越の武将霊姑孚が放った矢で片足を破傷した闔閭はこれが原因で陣没する。代わって太子の夫差が呉王として即位した。
夫差は、伍子胥の補佐を得て呉を建て直し、越に攻め込んで今度は越を滅亡寸前までに追い詰めた。
勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れた。
勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作により程なくして越に戻ることになった。
勾践はこのときの悔しさを忘れず、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。
前述の夫差と合わせて臥薪嘗胆という故事の元となった逸話である。
越は着々と国力を蓄え、夫差が中原の会盟に出かけたときを狙って呉に攻め込んだ。
呉の太子友は斬られ、夫差は慌てて呉へ引き返してきたが、これより4年後に呉は越に滅ぼされることになる。
呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の江蘇省の連雲港に遷し、更に諸侯を会盟して中原の覇者となった。
ただ、覇者となった勾践は讒言を信じるようになり腹心の范蠡が去り文種を自殺させたりと越を衰退させる結果となった。
お
王維(おうい)
生卒年は『旧唐書』によれば699年 - 759年、『新唐書』では701年 - 761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、
(長安元年 - 上元2年)は、中国唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。
また、画家、書家、音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。
河東(現在の山西省永済市)出身。
同時代の詩人李白が”詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、
南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。
とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれている。
王 翰(おうかん)
中国・唐の詩人。并(へい)州晋陽(山西省太原市)の出身。字は子羽(しう)。
豪放な性格で、酒を好み、家に名馬と美妓を集めて、狩猟や宴会に日を送っていた。睿宗(えいそう)の景雲2年(711年)、
進士に及第し、張説(ちょう えつ)に認められて駕部員外郎に任ぜられたが、説の失脚とともに汝州(河南省臨汝)
刺史として都を追われ、次いで仙州(河南省葉県)別駕に左遷されたうえ、素行が治まらぬと弾劾され、道州(湖南省道県)
司馬に流されて死去。作品に、『涼州詞(りょうしゅうし)』(七言絶句)がある。
王羲之(おうぎし)
303年 - 361年、中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。
本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省臨沂市)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。
曾祖父は王覧(王祥の弟)、祖父は王正、父は王曠(東晋の淮南太守)。子に王玄之(長男)、王凝之(次男)、
王渙之(三男)、王粛之(四男)、王徽之(五男)、王操之(六男)、王献之(七男)がいる。
子孫に王楨之(徽之の子)、智永らがいる[2]。
王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから
一族期待の若者として将来を嘱望されていた[8]。東晋の有力者である?鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の
有力者であった征西将軍・?亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後も羲之は朝廷の
高官から高く評価され、たびたび中央の要職に任命されたが、羲之はそのたびに就任を固辞した。
友人の揚州刺史・殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、
右軍将軍・会稽内史(会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近)となった。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、
ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。
一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。
354年、かねてより羲之と不仲であった王述(琅邪王氏と遠縁筋の太原王氏出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となる[9]。
王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請したが却下された。
王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。
官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を
過ごしたという。
衛恒(衛?の子)の族弟である衛展の娘で、汝陰の太守李矩の妻となった衛夫人から、後漢の蔡?、魏の鍾?の書法を伝授され、
その法を枕中の秘とした。7歳の時から衛夫人のもとで書を学び、12歳の時に父の枕中の秘書を盗み見、その技量が進んだ。
さらに各地を巡って古書を見、寝食を忘れて精進し、楷書・行書・草書の各書体について一家をなした。
王昭君(おう しょうくん)
(紀元前1世紀ごろ)は、匈奴の呼韓邪単于、復株累若?単于の時代の閼氏(単于の妻)。姓を王、諱は牆
(『漢書』匈奴伝下)または?(『西京雑記』)。字を昭君。晋・司馬昭の避諱により王明君・明妃ともいう。
日本では通常、王昭君と呼ばれるが、地元(フフホトの方)では単に昭君と呼ばれている。
荊州南郡(現在の湖北省沙市)出身で、楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人に数えられる。
前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于が、漢の女性を閼氏(匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ
(逆に漢王朝が持ちかけたという説もある)王昭君が選ばれた。以後、王昭君は呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けた。
その後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若?単于の妻になって二女を儲けた。
漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、
このことが王昭君の悲劇とされた。『後漢書』によると、呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若?単于の
妻になった。そのとき、王昭君は、反発したが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったとの記述がある。
こうした悲劇は『西京雑記』などで書き加えられ、民間にその伝承が広まった。
後世有名になった画工への賄賂の話は『西京雑記』にはじめて見える。それによると、
宮女たちはそれぞれ自分の似顔絵を美しく描いてもらうため、似顔絵師に賄賂を贈っていたが、
王昭君はただ一人賄賂を贈らなかったため、元帝の目に留まることがなかった。王昭君が匈奴への嫁として選ばれ、
皇帝に別れを告げるための式で王昭君を初めて見た元帝は、王昭君の美しさに仰天したが、
この段階になって王昭君を匈奴へ贈る約束を撤回すれば匈奴との関係が悪化することは明らかだったため撤回はできなかった。
その後の調査で、宮女たちから多額の賄賂を取り立てていた画家の不正が発覚したため、
元帝は似顔絵師を斬首刑に処した。当時の有名な画家であった毛延寿もこの事件で死刑になったという。
しかし、これには疑問が多い。匈奴は当時の漢にとって最も重要な外交相手であり、
その相手に対して敢えて醜い女を渡すといった無礼をするとは考えにくい。これらの話は五胡十六国時代
・南北朝時代に鮮卑に支配されていた漢族たちが自分たちの境遇を託したものではないかと考えられる。
『西京雑記』のほか、後宮に入ったものの数年間天子の寵愛を受けることがなかったことを怨み自ら志願した
(『後漢書』南匈奴伝)、子との結婚を拒否して服毒自殺した(『世説新語』賢媛篇の注に引く『琴操』)など、
様々に潤色された王昭君の物語は、王朝と異民族との狭間で犠牲となり、
文化・習俗・言語の異なる塞外の地で辛苦した薄幸の美女として好んで題材にされ、晋代の『王明君辞』、
元の馬致遠の雑劇『漢宮秋』などに作品化された。日本では、『今昔物語集』に巻第十第五に「漢前帝后王昭君行胡国語」
として取り上げられている。『和漢朗詠集』に大江朝綱が王昭君をうたった漢詩が見え、
『後拾遺和歌集』には赤染衛門が王昭君をうたった和歌を載せる。
王昭君はしばしば馬上に琵琶を抱いた姿で絵に描かれるが、『漢書』などには王昭君が琵琶を弾いたことは見えない。
西晋の傅玄「琵琶賦」(『初学記』、『通典』が引用する)に烏孫公主のために琵琶を作ったという古老の説が見えており、
それが王昭君の話にすりかわったものらしい。
王昭君の墓の位置は数ヵ所以上が伝えられるが、『通典』巻179 州郡・単于府・金河條に記される
(昭君墓の位置に関する最も早い文献中の記述)、現在の内モンゴル自治区のフフホト市にあるものが有名である。
陵墓の周囲には王昭君の郷里の家を再現した建物や庭園が整備され、また敷地内には匈奴博物館などがあり、
観光スポットとして人気が高い。
王昭君の墓は盛唐以降、「青塚(青冢)」(せいちょう)と呼ばれ、李白は「生きては黄金を乏(か)き枉(ま)
げて図画(ずが)せられ(画工に賄賂を贈らなかったがために醜く描かれ)
、死しては青塚を留めて人をして嗟(なげ)かしむ」(「王昭君 二首 その一」)と歌い、
杜甫は「一たび紫台を去りて朔漠連なり(漢の宮殿を去って匈奴に嫁いで以来、果てしなく広がる北の砂漠に暮らした)、
独(ひと)り青塚を留めて黄昏に向(あ)り(今はたそがれの弱々しい光の中にわずかに青塚を留めるばかり)」
(「詠懐古跡 五首 その三」)と詠んだ。白居易や張?らは青塚を詩題とする作品を為し、
かくて王昭君墓を表現する固有名詞となった[1]。敦煌発見のペリオ将来「王昭君変文」(絵を用いた講釈の台本)にも
「墳高數尺号青塚」の表現が見え、「青塚」の表現が広く一般に定着していたことが知れる[2]。
「青塚」の名は、『太平寰宇記』巻38 振武軍・金河県條に「青冢、県の西北に在り。漢の王昭君、此に葬らる。
其の上、草の色、常に青く、故に青冢と曰ふ。」とあり、また漢・蔡?撰『琴操』(散逸。実際は南北朝期の偽作)
「胡中、白草多きも、此の冢独(ひと)り青し。」[3]とある様に、「一面の白沙白草の胡地に、
王昭君の墓所のみ青草が生い茂る」ことに由来し、この伝説は、「王昭君の魂魄の再生復活をその青草に期待し、
願望したもの」[4]である。
王昌齢(おうしょうれい)
(698年?~755年)中国・唐代中期の詩人。字は少伯。就任した官職の地名から、王江寧、王竜標とも称せられる。
山西省太原に本籍を持ち、京兆・長安に生まれたらしい。開元15年(727年)に進士となり、祕書省の校書郎から
開元22年(734年)に博学宏詞科に及第して汜水(河南省)の県尉となったが、奔放な生活ぶりで江寧の丞・竜標(湖南省)の
県尉に落とされた。その後、天宝14年(755年)、安禄山の乱の時に官を辞して故郷に帰るが、刺史の閭丘暁に憎まれて殺された。
温庭筠(おんていいん)
(812年 - ?)は、中国・唐の詩人。太原祁県(山西省)の人。元の名は岐(き)、字は飛卿(ひけい)。
晩唐期を代表する詩人の一人で、李商隠とともに「温李」と呼ばれる。しかし試験場で隣席の者のために詩を作ってやったり、
遊里を飲み歩いて警官と喧嘩をしたりするなど、軽率な行為が多く、科挙には及第出来なかった。
宰相・令狐綯(れいこ とう)の家に寄食したが、令狐綯を馬鹿にしたので追い出された。
大中13年(859年)頃、特に召し出されて試験を受けたが、長安で任官を待つ間、微行していた宣宗に会い、
天子と知らずにからかったので、随県(湖北省)の尉に流された。襄陽(湖北省)刺史の徐商に招かれ、
幕下に入ったこともあるが、満足せず、辞職して江東の地方を放浪し、最期は零落して死んだ。
現代には、『温飛卿詩集』九巻が残っている。
か
懐 王(かいおう)
(? - 紀元前299年)は戦国時代の楚の王(在位:紀元前329年 - 紀元前299年)。姓は?(び)。名は槐(かい)。
秦の張儀の謀略に引きずり回され、国力を消耗し、最後は秦との戦いに敗れ秦に幽閉されたまま死去した。
戦国時代の暗君の代名詞的存在と目され、楚の悲劇の象徴とされた。屈原が度々彼を諫めたが、頑として聞き入れず、
屈原自殺の原因となった人物でもあった。
巫山雲雨
《宋玉の「高唐賦」の、楚の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と契ったという故事から》男女が夢の中で結ばれること。
また、男女が情を交わすこと。巫山の雲。巫山の雨。巫山の夢。朝雲暮雨。
賈誼(か ぎ)
(紀元前200年-紀元前168年)洛陽の出身。18歳にして詩経・書経を論じ、文章が優れていたために郡中で賞賛されていた。
当時、河南郡守であった呉公はその才能を愛し、招いて門下におく。文帝が即位し、呉公が李斯と同郷で治績をあげていることを聞き廷尉に任命されるに際して、
賈誼が年少でありながらも諸家の書に通じていることを上申したために、博士として抜擢された。
賈誼は、当時の博士の中で最も年少ではあったが、詔令の下るたびに真っ先に意見を具申することができたので、その年のうちに太中大夫に昇進する。
漢の制度に関して、儒学と五行説にもとづいて「正朔を改め、服色をかえ、法度を制し、礼楽を興す」べきことを主張した。
そうした賈誼を、文帝はさらに公卿にしようとしたが、前178年、それを嫉んだ丞相絳侯周勃・東陽侯張相如・馮敬等の讒言により、長沙王の太傅として左遷させられてしまう。
任地に赴く途中、屈原を弔った賦が『文選』にも収録されている「弔屈原文」である。3年余りにもわたる左遷生活であったが、前174年、文帝は賈誼のことを思い出し、
長安に召して鬼神のことを問う。その答えが上意にかなうものだったため、ふたたび信任され、もっともかわいがっていた末子 梁の懐王の太傳となった。
ちょうどこのころ、漢朝にとって諸侯王国は大きな脅威となり、匈奴も辺境を侵略しつつあった。そうした多様な社会問題に対し、賈誼も対策を上奏している。
今日「治安策」と呼ばれているのが、それである。第一に諸侯が強力であるのを抑制すべきであること、第二に蛮夷を侮らず警戒すべきことなどを説いている。
紀元前169年、梁の懐王が落馬して亡くなったことを悼み、その翌年賈誼自身も憂死した。
彼の文章は議論と叙事が錯綜し、雄渾流麗、古来名文として名高い。代表的な韻文としては、他に長沙在任中の「鵬鳥賦」があり、これも『文選』に収録されている。
秦を批判する「過秦論」も著名であり、これらの散文をまとめたものとして、『新書』がある。
ウィキペディア
岳 飛(がくひ)
(Yue Fei 1103年3月24日 - 1142年1月27日)は、中国南宋の武将。字は鵬挙。相川湯陰(河南省湯陰県)出身。
南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。
その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ(岳鄂王と呼ばれる)、関羽と並んで祀られている。
岳飛は元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、母の由氏に育てられたという。
やがて21歳の時、北宋末期の1122年に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、
その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、1134年には節度使に任命された。
しかし、増大する名声が秦檜派の反感と嫉視を招くことになる。
1140年に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮で会戦を行い、金の総帥斡啜の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、
秦檜の献策により友軍への撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされた。これは『宋史』の記録であるが、
『金史』にこの会戦の記録はない。
その後、秦檜により金との和議が進められる。それに対して、主戦派の筆頭であり民衆の絶大な人気を持った岳飛は危険な
存在であり、1141年に秦檜は岳飛の子岳雲、岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺した。
この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。その背には母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)の「尽(精)忠報国」
の4文字があったという。
後に冤罪が晴れると、1178年に武穆と諡され、1204年には鄂王に追封された。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立され、
岳王廟の岳飛・岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦・張俊らが縄で繋がれた形で正座させられている像が造られている。近年は当局により禁止されているが、かつては彼らに唾を吐きかける風習があった。
岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどである。
娥皇(がこう)
古代中国の伝説上の女性。堯の娘で、妹の女英とともに舜の妻となった。また娥肓、倪皇、後育、娥盲、娥?とも書かれた。
姓は伊祁氏。舜の父母や弟はたびたび舜を死地に置いたが、舜は娥皇と女英の機転に助けられて危地を脱した。
舜が即位して天子となると、娥皇は后となり、女英は妃となった。聡明貞仁で天下に知られた。舜が蒼梧で死去すると、
娥皇と女英は江湘の間で自殺し、俗に湘君(湘江の川の神)となったと伝える。
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賈至(か し)
(718年 - 772年)中国・唐の詩人。洛陽(河南省)の出身。字は幼幾(ようき)。一説には幼隣(ようりん)。賈曾の子。
開元23年(735年)に進士に及第、さらに天宝10戴(751年)、明経(めいけい)に及第、起居舎人・知制誥に至った。
安禄山の乱のときには、玄宗に従って蜀へ避難し、帝位を皇太子に譲る勅語を起草した。その後、一時罪によって
岳州(湖南省岳陽)に流され、そこで李白に会い、酒宴に日を送ったこともある。その落ち、都に召還され、
大暦5年(770年)には京兆尹兼御史大夫となり、右散騎常侍に至った。
作品に、『西亭春望(せいていしゅんぼう)』(七言絶句)がある。
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賀知章(がちしょう)
(659~744) 中国,盛唐の詩人。字(あざな)は季真。飲中八仙の一人。性放縦で,晩年は四明狂客と号す。
清淡風流な詩で世に知られた。李白を見いだした人物としても有名。草書・隷書の名手。詩「郷に回り偶書す」など。
四明狂客と号す。会稽の人。証聖初年進士に及第して、後に太子賓客、秘書監に至る。詩をよくして李白と交友があり、
また草書と隷書に巧みであったという。無類の酒客にして脱俗の趣あり、後に官を辞して故郷に帰り道士となって86歳で没した。
酔って馬に乗る姿は揺れる船に乗るかのようで、井戸に落ちてもそのまま眠り続けると歌う。
官を退くにあたり玄宗から鏡の湖をもらい、故郷に帰ったが翌年没した。無欲恬淡。
桓譚(かんたん)
中国,前漢末,後漢初の学者。字は君山。相 (安徽省宿県北西) の人。後漢初に議郎となる。著書に『新論』がある。
管仲(かん ちゅう)
管 夷吾(かん いご)、中国の春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。
一般には字の仲がよく知られており、管 仲(かん ちゅう)として記す。三国時代の管寧はその後裔という[1]。
管仲は鮑叔との友情を次のように述懐している。
「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。
私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとした事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、
彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。
私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。
私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。
私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時、召忽は殉死したが私は囚われて辱めを受けた。
だが鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を
理解していてくれたからだ。 私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」
二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ。
二人は斉に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし時の君主襄公は暴虐な君主で、
跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、
鮑叔と小白も?に逃れた。その後、襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、
君主が不在となった。斉国内は糾と小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、
先に帰国した方が有利な情勢になった。
ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようとした。
管仲は藪から毒を塗った矢を射て車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具に当たって体に届かず、
小白は無事であった(春秋左氏伝などにはこのことは書かれていない)。
この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして車を走らせてその場を急いで離れ、二の矢以降から逃れた。
更に小白は自分の死を確認する刺客が再度到来することを危惧して、念のために次の宿場で棺桶の用意をさせた。
このため管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一行は悠々と斉に帰国した。
しかし、既に斉に入っていた小白とその臣下たちが既に国内を纏めており、管仲と公子糾はやむなく再び魯へ退却した。
斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく軍を魯に向ける。魯も抗戦したが、
斉軍は強く窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、
公子糾の始末と管仲および召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管仲は罪人として斉に送られ、
召忽は身柄を拘束される前に自決した。しかし、管仲は斉に入ると拘束を解かれる。魯を攻めるにあたり、
桓公は初め糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、鮑叔から「我が君主が斉のみを統治されるならば、
私と高?の2人で十分です。しかし天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」
と言われて考え直したためである。
鮑叔の推薦により管仲は桓公と面会し、強兵の前に国を富ませることの重要性、そしてそれには民生の安定と規律の
徹底が必要だと説き、即日宰相に命じられた。鮑叔は管仲の下の立場に入り、その補佐に回った。
管仲は才を存分に発揮できる場所と右腕を得て、その優れた能力を発揮した。
管仲は内政改革に当たり、周代初期以来の古い制度である公田制を廃止し、斉の領土を21郷に分けた。
物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農民・漁民層の生活を安定させた。
これらにより民衆は喜んで働き、産業が活性化した。安定した生活は消費を生み、活発な産業は商人を呼び寄せ、
商業も活性化した。活発な商業は他国から人を呼び、この中から優れた人材を積極的に登用した。 一方で、五戸を一つの単位としてそれぞれの間で監視の義務を負わせたり、不正に対しては厳罰をもってあたった。これらは高い規律と多くの税収を生んだ。
国内を整備した桓公は魯に攻め込み、領土を奪った。講和条約の調印の際、魯の将軍曹沫は自らの敗戦を償おうと、
桓公の首に匕首を突きつけて奪った領土を返還する事を要求した。やむなく桓公はそれに応じたが、
斉へ帰った後に「脅迫された盟約など守る必要はない。今一度魯を攻め、曹沫の首を取ってくれよう」と言った。
しかし管仲は「たとえ脅迫の結果であろうとも、一度約束した事を破って諸侯の信望を失ってはいけません」と諌め、
領地を返させた。これ以降、桓公の約束は諸侯の間で信頼を持って迎えられ、小国の君主達は桓公を頼みにするようになった。
これらの政策によって増大した国力と信頼を背景に、桓公は覇者への道を歩む。周王室内部の紛争を治め、北上してくる楚を討って周への忠誠を誓わせ、小国を盟下においた。 この功績により桓公は、周王室から方伯(周を中心とした四方のうち東を管轄する諸侯の事)に任じられた。
桓公は度々傲慢に傾き、周王朝を蔑ろにしようとするが、管仲はその度毎に諌め、桓公も自らの意に逆らうことであってもその言を受け入れた。曹沫の件や燕斉の国境の不利な変更についても、自分では嫌だと思いながらも管仲の言に従った。
後世に管仲の著書とされている『管子』の中の言葉として「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」
の言葉がある。まず民生の安定があってこそ政治が行えるという考えだが、管仲が礼節を無視したわけではない。
桓公の命令で周王室の内紛を鎮めた時に、喜んだ周の襄王は管仲を賞して上卿にしようとしたが、
管仲は「私は陪臣でしかないので、そのような待遇は受けられません」とあくまで固辞した。
曹沫の一件での意見も同じ理由によるものであった。
簡野道明(かんのみちあき)
慶応元年4月9日(1865年5月3日) - 昭和13年(1938年)2月11日)は日本の漢文学者(漢字学者)・言語学者・教育者である。
漢和辞典「字源」の編者。
韓愈(かんゆ)
768年(大暦3年) - 824年(長慶4年))は、中国・唐中期を代表する文人・士大夫である。字は退之(たいし)、
諡は文公。鄧州南陽(今の河南省孟州市)の人であるが、昌黎(河北省)の出身であると自称した。唐宋八大家の一人。
諡によって「韓文公」ともよばれる。
韓愈は、六朝以来の文章の主流であった四六駢儷文が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、
秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱し(古文復興運動)、唐宋八大家の第一に数えられている。
この運動に共鳴した柳宗元は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。
古文復興運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と表裏をなすものであり、その観点から著された文章として、
「原人」「原道」「原性」などが残されている。その排仏論も、六朝から隋唐にかけての崇仏の傾向を斥け、
中国古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。
その傾向を受けついだのは高弟の李?である。
詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、
平易で通俗的な詩風を特徴とする白居易に対抗する中唐詩壇の一派を形成し、
孟郊・張籍・李賀・王建・賈島など「韓門の弟子」と称する詩人たちを輩出した。
文集に『韓昌黎集』40巻、『外集』10巻がある。
き
堯(ぎょう)
中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。
儒家により神聖視され、聖人と崇められた。
『史記』「五帝本紀」によれば、?の次子として生まれ、?の後を継いだ兄の死後帝となった[1]。「その仁は天のごとく、
その知は神のごとく」などと最大級の賛辞で描かれる。黄色い冠で純衣をまとい、白馬にひかせた赤い車に乗った[2]。
羲和、羲仲、羲叔、和仲に命じ、天文を観察して暦を作らせた。一年を366日とし、3年に1度閏月をおいた。[3]
堯は大洪水を憂え、臣下の四岳に誰に治めさせるかを問うた。みなが鯀を推薦した。堯は「鯀は(帝の)命に背き、
一族を損なっている」と反対したが、岳は試しに使い、だめなら止めればよいと言った。そこで鯀を用いたが、
9年たっても成果がなかった。[4]
『十八史略』によれば平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。
別の書物での堯の伝説として、?(?の字は羽の下に廾、姓は后)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、
交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。
堯は弓の名人である?に何とかして来いと命令すると、?は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、
救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。
舜への禅譲
堯には丹朱と言う息子がいたが、臣下から推薦者を挙げさせた。放斉は丹朱を挙げ、驩兜は共工を挙げたが、堯は二人とも退けた。みなが虞舜(舜)を挙げ、性質がよくない父と母、弟に囲まれながら、彼らが悪に陥らないよう導いていると言った。堯は興味を示し、二人の娘を嫁した。[5]
それから民と官吏を3年間治めさせたところ、功績が著しかったため、舜に譲位することにした。
舜は固辞したが、強いて天子の政を行なわせた。舜の願いにより、驩兜、共工、鯀、三苗を四方に流した。
20年後に完全に政治を引退し、8年たって死んだ。天下の百姓は父母を失ったように悲しみ、3年間音楽を奏でなかった。
3年の喪があけてから、舜は丹朱を天子に擁立しようとしたが、諸侯も民も舜のもとに来て政治を求めたので、
やむなく舜が即位した。[6]
堯舜の伝説の形成
舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、
起源となったような人物がいるのかは解らないが、中国人民日報は2000年に山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。
また1993年に郭店一号楚墓から発見された竹簡には堯や舜の事跡が記録されており、注目される。
堯舜伝説の異説
唐代の歴史家・劉知幾は、その著書・『史通』で、堯舜伝説を否定する以下の内容のことを書き残している。
『山海経』等の歴史・地理書には、「囚堯城」や「帝丹朱」という記述があり、このことから想定するに、
堯は実力者の舜に強制的に退位させられ、「囚堯城」に幽閉された。それから間もなく、舜は丹朱(帝丹朱)を即位させたが、
しばらくして、人々の支持はことごとく自分に集まっているとして、丹朱を廃して自身が即位したのではないか。
第一、そんなに徳の高い大人物が次から次と出て来るものだろうか。
鼓腹撃壌
堯の御世も数十年、平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに、天下が本当に治まっているか、
自分が天子で民は満足しているか、かえって不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て自分の
耳目で確かめようとした。ふと気がつくと子供たちが、堯を賛美する歌を歌っていた。これを聴いた堯は、
子供たちは大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふと傍らに目をやると、
老百姓が腹を叩き、地を踏み鳴らしながら(=鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。この歌を聴いて堯は世の中が
平和に治まっていることを悟った、とされる(『十八史略』)。
喬 琳(きょうりん)
(?-784年7月28日),中国唐朝官員,唐德宗初年短暫為相。
太原人氏。他年少孤貧,但好学,以文詞聞名。唐玄宗天宝(742年-756年)初年,中進士。拜監察御史。
許 圉師(きょ ぎょし)
? - 679年、唐の政治家、宰相。 貫籍は、安州安陸県(現・湖北省安陸市)。
『永徽五礼』・『芳林要覧』などの編纂に参与した。『全唐詩』巻四五に詩一首が残る。
く
屈 原(くつげん)
(紀元前343年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は?、氏は屈。
諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする
懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。
屈原は楚の武王の公子瑕(屈瑕)を祖とする公室系の宗族(広義の王族)の1人であり、屈氏は景氏・昭氏と共に楚の王族系でも
最高の名門の1つであった(これを三閭と呼ばれる)。
家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていたために懐王の信任が厚く、賓客を応接する左徒となった。
当時の楚は、西の秦とどう向き合っていくかが主要な外交問題であった。楚の外交方針について、臣下は二分していた:
一つは、西にある秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派(楚における連衡説)であり、もう一つは、東の斉と
同盟することで秦に対抗しようとする親斉派(楚における合従説)である。屈原は親斉派の筆頭であった。
屈原の政治能力は当時の楚では群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて讒言を受け、
王の傍から遠ざけられ同時に国内世論は親秦派に傾いた。
屈原は秦は信用ならないと必死で説いたが、受け入れられない。屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の罠に懐王が引っかかり、
楚軍は大敗した(張儀の項を参照)。丹陽、藍田の大敗後、一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、
政権から遠ざけられた。
秦は懐王に婚姻を結ぼうと持ちかけて秦に来るように申し入れた。屈原は秦は信用がならない、
先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、秦に監禁されてしまった。
王を捕らえられた楚では頃襄王を立てた。頃襄王の令尹(丞相)に屈原が嫌いぬいた子蘭がなったために、
更に追われて江南へ左遷された。その後、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、
石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。後に屈原の無念を鎮めるため、また亡骸を魚が食らわないよう
魚のえさとしても人々が笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったと言われ、これがちまきの由来といわれる[1]。
また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は「入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出した」
という故事が由来であると伝えられている。
屈原の強烈な愛国の情から出た詩は楚の詩を集めた『楚辞』の中で代表とされ、その中でも代表作とされる
『離騒(中国語版)』は後世の愛国の士から愛された。
虞美人(ぐびじん)
(? - 紀元前202年?)は、秦末から楚漢戦争期にかけての女性。
項羽(項籍)の愛人(中国語で妻や恋人を意味する)。正確な名前ははっきりしておらず、「有美人姓虞氏」
(『漢書』巻31陳勝項籍傳第1[1])とも「有美人名虞」(『史記』巻7項羽本紀 第7[2])ともいわれ、
「美人」も後宮での役職名(zh:中國古代後宮制度#秦朝参照)であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。
小説やテレビドラマでは項羽の妻として描かれ、虞を姓とし「虞姫」と紹介されているものが多い。
項羽との馴れ初めについては『史記』にも『漢書』にも一切記載されておらず、垓下の戦いで初めて「有美人姓虞氏
常幸從[1]」、「有美人名虞 常幸從 駿馬名騅 常騎之[2]」(劉邦率いる漢軍に敗れた傷心の項羽の傍にはいつも虞美人がおり、
項羽は片時も彼女を放すことがなかった)と紹介されている。
劉邦軍により垓下に追い詰められ、四面楚歌の状態になって自らの破滅を悟った(思い込んだ)項羽は彼女に、ーーー
と歌い、垓下から脱出する。
『史記』および『漢書』ではその後の虞美人について一切記述されていないが、通俗小説の『通俗漢楚軍談』などでは、
項羽の足手まといにならぬために虞美人は自殺している。また、虞美人の自殺云々についても、
女性の貞節が口うるさく言われるようになった北宋時代からそのような話が出てくるようになったといわれる。
自殺した虞美人の伝説はヒナゲシに「虞美人草」という異名がつく由来となった。
け
頃襄王(けいじょうおう)
在位:紀元前298年 - 紀元前263年)は、中国の戦国時代の楚の第38代の王。
第37代の懐王の子。太子時代に斉に人質としてあったが、父の懐王が秦に抑留されたため、帰国して即位した。
だが秦の攻勢は続き、逆にそれまで大国だった楚は懐王のために衰勢になっていたため、
即位直後の紀元前298年に秦の攻撃を受けて16の城を失った。このため紀元前285年に秦の昭襄王と和睦した。
紀元前284年に燕の昭王の提唱で韓・魏・趙ら三晋など5ヶ国と連合して斉に攻め入り、斉軍に大勝して淮北を獲得した。
だが紀元前280年から秦の白起に攻められ、2年後には遂に都の郢を落とされて陳に遷都した。
紀元前273年に三晋と連合して燕を攻めて大勝するも、秦との戦いは常に劣勢にあり太子の熊元(のちの考烈王)を
人質に差し出して和睦した。
紀元前263年に死んだ。死後、王位は人質として秦にあった熊元が春申君の助力を受けて即位した。
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)
(602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳?(チンイ)。諡は大遍覚[1]で、尊称は法師、
三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。
以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、
これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。
陳?は、隋朝の仁寿2年(602年)、洛陽にほど近い?氏[2][3][4](現在の河南省偃師市?氏鎮)で陳慧(または陳恵)の
4男[2][4]として生まれた。母の宋氏は洛州長史を務めた宋欽の娘である。[2]字は玄奘[2][4]で、戒名はこれを諱とした。
生年は、上記の602年説の他に、598年説、600年説がある。[5]
陳氏は、後漢の陳寔[2][3][4]を祖にもつ陳留(中国語版)(現在の河南省開封市)出身の士大夫の家柄で、地方官を歴任した。
特に曽祖父の陳欽(または陳山)は北魏の時代に上党郡の太守になっている。[2][4]その後、祖父である陳康は北斉に仕え、
?氏へと移住した。[2][3][4]
8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳?は、「曾子避席」のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、
私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けた。この逸話により、陳?の神童ぶりが評判となった。[4]
10歳[5]で父を亡くした陳?は、次兄[4]の長捷(俗名は陳素[3])が出家して洛陽の浄土寺に住むようになった[2][3][4]のをきっかけに、
自身も浄土寺に学び、11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになった。[3]ほどなくして度僧の募集があり、
陳?もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験を受けられなかったので、門のところで待ち構えた。
これを知った隋の大理卿である鄭善果(中国語版)は、陳?に様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、
陳?は「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えた。[4]これに感じ入った鄭善果は、
「この風骨は得がたいものだ」と評して特例を認め、[2][4]陳?は度牒を得て出家した。
こうして兄とともに浄土寺に住み込むことになり、13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んだ。[2][3][4]
武徳元年(618年)、隋が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄とともに長安の荘厳寺[3]へと移った。
しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、玄奘の望むような講釈はなかった。
[2][3][4]かつて煬帝が洛陽に集めた名僧たちは主に益州に散らばっていることを知った玄奘は、益州巡りを志し、
武徳2年(619年)に兄と共に成都へと至って『阿毘曇論』を学んだ。また益州各地に先人たちを尋ねて『涅槃経』、
『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究をすすめ、歴史や老荘思想[2][4]への見識を深めた。
武徳5年(622年)、21歳の玄奘は成都で具足戒を受けた。[2][4]ここまで行動を共にしていた長捷は、
成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘はひとり旅立ち、商人らに混じって三峡を下り、荊州の天皇寺で学んだ。
[2][3][4]その後も先人を求めて相州へ行き、さらに趙州で『成実論』を、長安の大覚寺で『倶舎論』を学んだ。[2][4]
玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、
隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、
国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国、
役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に至った。
高昌王である?文泰は、熱心な仏教徒であったことも手伝い、玄奘を金銭面で援助した。玄奘は西域の商人らに混じって
天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えて
インドに至った。
ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの
保護を受け、ハルシャ王へも進講している。
こうして学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につき、出国から16年を経た貞観19年1月(645年)に、
657部の経典を長安に持ち帰った。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、
時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価したので、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはなかった。
太宗が玄奘の密出国を咎めなかった別の理由として、玄奘が西域で学んできた情報を政治に利用したい太宗の
思惑があったとする見方もある。事実、玄奘は帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められたが、
彼は国外から持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えていたため太宗の要請を断り、太宗もこれを了承した。
その代わりに太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめて提出することを玄奘に命じており、
これに応ずる形で後に編纂された報告書が『大唐西域記』である。
帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げた。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)
2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移った。
さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。
その後、玉華宮に居を移したが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられた。
麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に
玉華宮で寂した。
玄奘自身は亡くなるまでに国外から持ち帰った経典全体の約3分の1までしか翻訳を進めることができなかったが、
それでも彼が生前に完成させた経典の翻訳の数は、経典群の中核とされる『大般若経』16部600巻(漢字にして約480万字)
を含め76部1347巻(漢字にして約1100万字)に及ぶ。玄奘はサンスクリット語の経典を中国語に翻訳する際、
中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の鳩摩羅什らの漢訳仏典を旧訳(くやく)、
それ以後の漢訳仏典を新訳(しんやく)と呼ぶ。
『般若心経』も玄奘が翻訳したものとされているが、この中で使われている観自在菩薩は、クマーラジーバによる旧訳では
『観音経』の趣意を意訳した観世音菩薩となっている。訳文の簡潔さ、流麗さでは旧訳が勝るといわれているが、
サンスクリット語「Avalokite?vara(アヴァローキテーシュヴァラ)」は「自由に見ることができる」という意味なので、
観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を批判している。
一説では、時の唐の皇帝・太宗の本名が「李世民」であったため、「世」の字を使うことが避諱によりはばかられたからとも
される。
玄奘自身は、明確に特定の宗派を立ち上げたわけではないが、彼の教えた唯識思想ともたらした経典は、
日中の仏教界に大きな影響を与えた。
法相宗の実質的な創始者は玄奘の弟子の基である。しかし、『仏祖統紀』などは、玄奘とナーランダー留学時の師である
戒賢までを含めた3人を法相宗の宗祖としている。
遣唐使の一員として入唐した道昭は、玄奘に教えを受けた。 道昭の弟子とされるのが、行基である。
玄奘の遺骨
慈恩寺玄奘塔(さいたま市岩槻区)
詳細は「慈恩寺 (さいたま市)」を参照
日中戦争当時の、1942年(昭和17年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、旧日本軍が玄奘の墓を発見した。
それは、縦59cm横78cm高さ57cmの石槨で、中には縦51cm横51cm高さ30cmの石棺が納められていた。石棺の内部には、
北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武19年)の葬誌が彫られていた。石棺内に納められていたのは、
頭骨であり、その他に多数の副葬品も見つかった。
この玄奘の霊骨の扱いには関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た。中国側は、
北平の法源寺内・大遍覚堂に安置された。その他、各地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など、
数ヶ寺に安置される他、南京博物院にも置かれている。
この時、日本で奉安されたのが、現さいたま市岩槻区の慈恩寺である。後に奈良市の薬師寺「玄奘三蔵院」に一部分骨された。
著作・伝記
玄奘の作品
玄奘自身の著作である『大唐西域記』により、彼の旅程の詳細を知ることができる。玄奘の伝記は、
仏教関係の様々な書物に記載されているが、唐代のものとしては、『大慈恩寺三蔵法師伝』と『続高僧伝』がある。
大唐西域記
玄奘は、その17年間にわたる旅の記録を『大唐西域記』として残しており、当時の中央アジア・インド社会の様相を伝える
貴重な歴史資料となっている。
大慈恩寺三蔵法師伝
慧立と彦?により伝記が編まれ、玄奘の死から24年後にあたる垂拱4年3月15日(688年)に『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が完成した。略称は『慈恩伝』。
大正新脩大蔵経では、『大唐大慈恩寺三藏法師傳』としてNo.2053に収録されている(T50_220c)。また、興福寺と法隆寺の所蔵する院政期の写本は共に国の重要文化財である。
『続高僧伝』は、道宣の編纂した中国僧の伝記集。ただし、『続高僧伝』が完成した645年は、玄奘の帰国直後であるのに対し、
玄奘の項には、664年の死までが記されている。
元代に成立した小説『西遊記』は、『大唐西域記』や 『大慈恩寺三蔵法師伝』を踏まえたうえで書かれており、
玄奘は三蔵の名で登場している。
三蔵法師とは経、律、論に精通している僧侶に対して皇帝から与えられる敬称であり、本来は玄奘に限ったものではない。
例えば鳩摩羅什、真諦、不空金剛、霊仙なども「三蔵法師」の敬称を得ている。
だが今日では、特筆すべき功績を残した僧侶として「三蔵法師」といえば、玄奘のことを指すことが多くなった。
元稹(げんしん)
779年(大暦14年) - 831年(大和5年)、中国・唐代中期の詩人、文人、宰相。字は微之。郡望は河南洛陽(河南省洛陽市)
であるが、長安靖安里に生まれた。
代の王拓跋什翼?(北魏の昭成帝)の末裔であった。しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。
15歳で明経科に、28歳で進士に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、
宦官仇士元との紛争で江陵府の司曹参軍に左遷された。?州の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、
中書舎人・承旨学士となり、穆宗の時に工部侍郎・同平章事(宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、
越州に転じ浙東観察使を兼ねた。827年頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、鄂州刺史に武昌軍節度使を兼ね、
その地で急病により没する。
出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の裴度と勢力争いに及ぶ。
元稹はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・崔潭峻と仲がよいので任官できたとも言われる。
一時期不遇で文学に専心。楽府体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。
そのため「才子」とも称せられた。やがて白居易と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し
「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。短編小説の『鶯鶯伝』[1] では曲折に富む構成と達意な筆致で、
以後に流行する小説[2]を先導した。『元氏長慶集』60巻にほぼ全作品が収められている。
阮 籍(げんせき)
阮 籍(げん せき、210年(建安15年) - 263年(景元4年))は、中国三国時代の人物。字(あざな)を嗣宗、
?州陳留郡尉氏の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は建安七子の一人である阮?。甥の阮咸も竹林の七賢の一人である。
子は阮渾。兄は阮煕。
阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、
気に入った人物に対しては青眼で対応したという。阮籍が喪に服していた時、?喜は礼法に則り弔問した。
すると阮籍が白眼視したので、?喜は怒って帰ってしまった。弟の?康がそれを聞き、酒と琴を持って阮籍の家を訪れると
、阮籍は喜んで青眼で迎えたという。
転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。一方で彼は時事を評論せず、
人の過ちを決して口にしない極めて慎重な人物であったという[2]。
憲宗皇帝(けんそうこうてい)
唐朝の第14代皇帝。順宗の長男。
805年4月に立太子され、同年8月には順宗の病を理由にした譲位にともない即位した。
即位後は宦官の勢力に対抗するために杜黄裳を登用した。さらに地方の節度使勢力を抑制するため、
817年(元和12年)には淮西節度使を討って地方の統制強化も実施している。対藩鎮勢力の施策としては、
儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。
さらに名臣と謳われた武元衛や李吉甫らにも恵まれ、軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、
唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
だが、太子に立てられた長男の鄧王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、
憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺するようになった。法門寺の仏舎利を長安に奉迎することを計画し、
韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。
また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。
そのため820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺された。
玄宗皇帝(げんそうこうてい)
685~762 中国、唐の第6代皇帝。在位712~756年。姓名は李隆基(りりゅうき)。
則天武后のあとに権勢をふるった中宗の皇后韋(い)氏一派を710年にクーデタで一掃し、
父の睿(えい)宗を即位させて自らは皇太子となり、やがて父のあとをついだ。
玄宗は治世の前半は混乱した秩序の回復につとめ、有用な人材を登用して国力を増大、対外的にも突厥をおさえるなどの
積極策をとり、年号からとって「開元の治」とたたえられた。
しかし、「貞観(じょうがん)の治」と称された唐初期の治世を再現しようとする玄宗の理想は、
くずれつつある律令政治のほころびをつくろうにすぎず、農村の窮乏、科挙制の浸透による新興勢力の増大などの
新しい時代の動きにこたえるものではなかった。この矛盾はしだいに明らかとなった。
財政はゆとりをなくし、均田制や府兵制などの諸制度もくずれはじめた。玄宗はしだいに政治をおろそかにするようになり、
息子寿王の妃だった楊貴妃をうばって後宮にいれるなど、遊興にふけっていった。
755年に安史の乱がおきると、玄宗は翌年四川(しせん)へおちのび、その途中で楊貴妃は殺される。
玄宗は皇太子(粛宗)に位をゆずって上皇となり、757年にうばいかえされた長安へもどったが、
粛宗との不和で幽閉同然となり、失意のうちに病死した。
厳 武(げんぶ)
(726年 - 765年)は、中国・唐代の官僚。字は季鷹。玄宗期に用いられた厳挺之の子。
蜀の地に流浪してきた杜甫を保護したことで知られる。
華州華陰(陝西省)の出身。幼い時から豪爽な性格で、父から奇才を認められた。しかし、勉学はその意義を究めるにほど遠く、
蔭隠により、太原府(山西省)参軍に就任し、殿中侍御史に進む。
安史の乱のとき、玄宗に従い、蜀の地に入り、諫議大夫に抜擢される。至徳元年(756年)、粛宗のもとに赴き、
房?に父の厳挺之の名声により用いられ、給事中に用いられる。長安の回復後、京兆少尹となる。
しかし、房?の失脚により、巴州刺史に左遷させられ、その後、東川節度使に転任する。玄宗によって、
成都尹および剣南節度使に任じられる。
唐による長安の奪還後、京兆尹に任じられ、鄭国公に封じられる。黄門侍郎に転任し、元載と深い交流をし、
宰相になろうとしたが、果たせず、再び剣南節度使となる。当狗城において吐蕃(チベット)の7万の衆をうち破り、
鹽川を攻め取り、吏部尚書を官位に加えられる。
厳武は蜀(四川省)を治めて、放埒であった。能力がなくても、彼を喜ばせると、莫大な賞賜を与えられた。
富裕であった蜀の地は、彼の苛斂誅求のために、逃亡者で空地ばかりとなった。また、かつて自分の判官であり、
梓州刺史に就任した章彝を小さなことで怒って、殺してしまった。しかし、外国は彼を恐れ、国境を侵さなかった。
また、蜀に流浪して来た杜甫に対し、厚遇したことでも知られる。
酔った杜甫に「本当に、君はあの厳挺之の子か」と言われ、目を怒らせたが、「君こそ、あの杜審言の子孫か」と言い返し、
満座が大笑いしたため、場がおさまったと伝えられる。
杜甫を厚く遇したが、彼のことを何度も殺そうとした。厳武は章彝とともに杜甫を殺そうと役人を集めたが、
母の裴氏に止められて、章彝は殺したが、杜甫は殺されなかった。
こ
呉筠(ごいん)
( ?‐778)中国,唐代の道士。華陰(陝西省大茘県)の人。号を中嶽道士,諡(おくりな)を宗元先生という。
玄宗の天宝年間(742‐755),嵩山(すうざん)の潘師正に師事して道士となった。道教を好む玄宗に召されて翰林待詔となったが,
宦官高力士をはじめ仏教勢力に忌まれ,安史の乱中,茅山さらに会稽へ隠棲した。文人としても名声があり孔巣父,
李白などと親交があった。《宗元集》20巻のほか《玄綱》《神仙可学論》などの撰述がある。
孔子(こうし)
(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏は孔、諱は丘、
字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"
(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。
実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と
仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。
孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。
3500人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、
その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、
文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、
その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。
孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、
実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。
『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から
『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。
しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は
中国思想の根幹たる存在となった。
20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで
展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は
批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、
林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。
近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として
活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照。)。
公孫 述(こうそん じゅつ)
扶風茂陵の人。新末後漢初に四川(巴蜀)に地方王朝「成」(成家とも)を建てた。
父の公孫仁は成帝の末に侍御史となり、その故を以て郎となる。父が河南都尉の時に、公孫述は天水郡清水県の長に任じられ、
若年を心配した公孫仁は自分の部下を使わすが、その部下は「公孫述は教えを待つ者には非ず」と一人戻る。
能有る為に太守は五県を兼務させるも政事は整い、盗賊は発せず、郡中鬼神有りと称される。王莽の天鳳年間に導江の卒正
(新制における蜀の太守)となり、能名を馳せた。
赤眉の乱の混乱の中、更始帝が立つと漢中から四川にかけて、宗成と王岑が漢軍の将を称して挙兵した。
当初、公孫述は成都に招くも、掠奪を行う賊兵と知ると、公孫述はこれを討たんものと県内の豪傑を募って、
自分は輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧の印綬を預けられたと称し、宗成らを討って、この地に割拠する。
更始2年(24年)秋、長安の更始帝(劉玄)は巴蜀の地を平定せんと李宝・張忠ら軍を派遣するも、
公孫述は弟公孫恢を遣って綿竹で撃退した。建武元年(25年)には蜀王を号し、国号を「成家(中国語版)」とした
(王朝名は成都を首都としたことによる)。また年号を建てて龍興元年とした。それまでの五銖銭を廃止して鉄銭を発行したが、
不評であった。
公孫述は、漢中は南鄭、武都郡は下弁・河地を収めて、漢中郡・武都郡を支配下に置き、三輔は陳倉に進出する。
しかし劉秀が皇帝に即位し、更始帝に代わって漢王朝を継ぎ(後漢王朝)、光武帝の大司徒鄧禹が三輔に入り、その後、
光武帝の征西大将軍馮異が長安を含む三輔を定めることとなり、隴西の地で割拠していた隗囂は鄧禹から西州大将軍の号を受け、
その後も光武帝に従って、三輔にて公孫述の兵を討つ。
龍興6年(30年)、光武帝は隴西を通って公孫述を討たんとし、これを嫌った隗囂は遂に光武帝と兵を交えることになる。
龍興7年(31年)、光武帝とも和睦できず隗囂は公孫述に臣従する。龍興10年(34年)、光武帝の中郎将来歙は病死した隗囂の
後を継いだ隗純を捕え、隴西を降す。龍興11年(35年)、来歙は、蓋延・馬成・劉尚を率いて隴から武都郡に、
征南大将軍岑彭・大司馬呉漢・臧宮らが長江を遡って巴蜀(四川)へ侵入し、公孫述は来歙・岑彭を暗殺するも、
翌年遂に成都に攻め込まれ、公孫述はこの防衛戦で負傷し、その夜に死去して成都は開城した。公孫述の一族は共々誅殺された。
高適(こうせき)
702頃~765 渤海(ぼっかい)(山東省)の人。滄州渤海(現河北省)の出身。李白と親交があり磊落な性質で家業を怠り、
落ちぶれて梁・宋(現河南省)で食客となっていたが、発憤して玄宗の時に有道科に挙げられ、封丘尉の役職を授けられた。
その後官職を捨てて河右に遊歴し、河西節度使哥舒翰に見いだされて幕僚となった。
また侍御史となり、蜀に乱を避けた玄宗に随行した。粛宗の命で、江西采訪使・皇甫?とともに皇弟である永王李?の軍を
討伐平定した。後に蜀が乱れるに及び蜀州・彭州の刺史となり、西川節度使となった。長安に帰って刑部侍郎・散騎常侍となり、
代宗の代に渤海侯に封ぜられ、その地で没した。
高力士(こう りきし)
光宅元年(684年) - 宝応元年(762年))中国唐代の宦官。唐の第6代皇帝玄宗の腹心として仕え、権勢を振るった。
潘州(広東省)の人。即位前の玄宗に仕え,韋后や太平公主らを排除して玄宗が即位するのに大功があり,
玄宗の寵を背景に権勢をほしいままにした。宇文融,李林甫,楊国忠,安禄山らはいずれも彼と結んで高位昇進を得た。
安史の乱の際,玄宗の蒙塵に従って成都に至ったが,後輩宦官の李輔国により失脚させられた。
のち許されて帰京の途次に没した。唐代の宦官による政権介入は高力士に始まる。
呉王夫差(ごおうふさ)
(? - 紀元前473年)は、中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓は姫。春秋五覇の一人に数えられる。
先代の呉王闔閭の次男。越王勾践によって討たれた父・闔閭の仇を討つため、伍子胥の尽力を得て国力を充実させ、
一時は覇者となったが、勾践の反撃により敗北して自決した。
闔閭は勾践が范蠡の助言を容れて国力を伸張させていた時に越に攻め込んだが逆撃され、
闔閭は越の武将である霊姑孚が放った矢によって足の親指に傷を負い、それが原因で破傷風となって死んだ。
闔閭は死に際して夫差の兄弟である公子子山との後継者争いを避けるために急いで夫差を呼んで、
自分の後継者に任命し「勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と遺言した。
この言葉を忘れないように夫差は寝室に入る時は部下に闔閭の遺言を繰り返させ、
寝る時は薪の上に寝て復讐を忘れないようにした(『史記』呉太伯および越王句践世家の「臥薪嘗胆」)。
胡応麟(こおうりん)
(1551年 - 1602年)は明代中国の学者。字は元瑞または明瑞。少室山人、時羊生と号する。
南京の官であった胡僖の子として蘭渓(現在の浙江省金華市)に生まれる。幼少より詩を善く書き、万暦4年(1576年)
に挙人となる。ただし万暦11年、14年、23年、27年の会試に及第せず、ついに官に登用されることなく、
山中に居住し読書にふけり、貧しいながらも書物を収集し4万冊に及ぶ。学問の範囲は経史子集にわたり、
儒家・仏教・道教に至るまでになった。編纂書・著作が非常に多い。
呉元済(ごげんさい)
814年に李光顔と李愬は節度使の呉元済を討伐するよう命じられた。
李愬は命令を受けたあと、偵察を行いながら、「自分は弱卒であり呉元済を討つことが目的でなく治安回復のみが任務」
と宣伝して回った。呉元済は彼を監視していたが、結局李愬を攻撃軍でないと判断してその活動を見逃すようになった。
李愬は、数年かけて工作を行い、呉元済の部下の丁士良、呉秀琳、李忠義などを徐々に離反させた。
817年、李光顔が大軍で呉元済軍を攻撃。呉元済の蔡州城からは主力が進発したため手薄となった。
そこで風雪の日、李愬は蔡州城を夜襲して呉元済を捕縛、長安に連行して処刑した。
順手牽羊(じゅんしゅけんよう)は、兵法三十六計の第十二計にあたる戦術。読み下し「手に順(したが)いて羊を牽(ひ)く」
である。の一例。
呉起(ごき)
(紀元前440年 - 紀元前381年)は、中国戦国時代の軍人、政治家、軍事思想家。孫武、孫?と並んで兵家の代表的人物とされ、
兵法の事を別名「孫呉の術」とも呼ぶ。死後兵法書『呉子』の作者に擬せられた。子は呉期[1]。
衛の左氏(現在の山東省?沢市定陶県)の人[2]。立身出世を志して、曾子(曾参)に学んだが[3][4]、
母の葬儀に帰らなかったため不孝として破門される。母の葬儀に帰らなかったのは、かつて仕官のため各地を転々としたものの、
仕官先が見つからないまま家の財産を使い果たし、そのことを馬鹿にした人を故郷で殺害した後ろめたさのためであり、
呉起は素直に曾子のもとを去った[5]。
その後、魯の元公の嘉に仕えてその将軍となる。斉人を妻にしていたために将軍に任用する事を危ぶまれたが、
先んじて妻を殺すことでそれを晴らした。しかし、それが結局人格に対する不信感を産み、魯の大夫達により
「呉起は自分の妻を殺したばかりでなく、魯と兄弟国である衛を独断で侵略した怪しからん人物である」という讒言にあって、
彼は元公から懲戒免職されて失脚し、身の危険を感じて魏の文侯のもとに走る。
文侯は魏の歴代の君主の中でも一二を争うほどの名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。
文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、
軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた。
呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。
ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。将軍様がじきじきにあんな事をやって下されているのに、
何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍様に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。
あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う。
この逸話(「吮疽の仁」と呼ばれている)の示すように兵士達は呉起の行動に感激し、呉起に信服して命も惜しまなかったため、
この軍は圧倒的な強さを見せた。
呉起は軍を率い、秦を討ち、5つの城を奪った。この功績により西河の太守に任じられ、秦・韓を牽制した。
文侯が死に、子の武侯が即位すると田文[6]と宰相の座を争うが、これに敗れる。これを不服として、本人に抗議し、
軍略・政治力・諸侯への威信、それぞれどちらが優れているかを問い質した。すると、
田文は三つとも呉起の方が優れていると述べた上で、「だが、今の主君は幼くして民からの信望も薄い。
このような状況においては、私と貴殿とどちらが大役を任されるだろうか?」と尋ね返した。
ここにおいて呉起は己が田文に及ばないことを認めた。
その後田文が亡くなり、文侯の女婿でもある公叔某が後任の宰相となった。しかし公叔は呉起を嫌ったために、
妻の弟である武侯に呉起のことを讒言した。そのために武侯は呉起を疎み始め、両者の間は上手くいかなくなった。
さらに公叔は呉起を陥れる策略を画策し、呉起に反乱の罪を着せようとしたので呉起は楚に逃亡した。
楚では時の君主悼王に寵愛され、令尹(宰相)に抜擢され法家的な思想を元とした国政改革に乗り出す。
元々楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。これに呉起は、
法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養い、富国強兵・王権強化に成功した。
この事から呉起は法家の元祖と見なされる事もある(ただし管仲や伝説の太公望も、その政治手法は法家的とされ、
時代的には古い)。しかしその裏では権限を削られた貴族達の強い恨みが呉起に向けられ、呉起もそれを察知していた。
呉起が無事なのは悼王の寵愛があればこそだが、悼王は既に高齢であった。
紀元前381年、悼王が老齢で死去すると、反呉起派は呉起を殺すために宮中に踏み込んだ。逃れられない事を悟ると
呉起は悼王の死体に覆いかぶさり、遺体もろとも射抜かれて絶命した。政権空白期の事故である。
だが父の跡を継いだ粛王は、反呉起派の放った矢が亡父の悼王にも刺さった事を見逃さず、
巧みに「王の遺体に触れた者は死罪」という楚の法律(かつて伍子胥が王の死体に鞭打ったために、このような法律があった)
を持ち出し、改革反対派である悼王の遺体を射抜いた者達を大逆の罪で一族全員処刑してしまった。
死の間際において呉起は、自分を殺す者達への復讐を目論み、かつ改革反対派の粛清を企てたのである。
しかしこの機転にもかかわらず、呉起の死により改革は不徹底に終わった。
顧 況(こ きょう)
(725年 - 814年?)は、中国・唐の詩人。蘇州(江蘇省)の出身。字は逋翁(ほおう)。号を華陽山人、また悲翁という。
粛宗の至徳2戴(757年)の進士。徳宗のときに秘書郎となり、権官の李泌に師事していたが、李泌が宰相となったとき、
自分も昇進すると期待したが、かなり遅れて著作郎に転任したにとどまった。
李泌の死後、弔いもせずに嘲笑的な詩を作ったため、饒州(江西省波陽?陽)司戸参軍に左遷され、
やがて家族を引き連れて茅山(江蘇省句容県の東南)に籠もり、最後は消息不明となったので、仙人の術を得たと伝わる。
今日では『華陽真逸詩』二巻などが残っている。
宋代の呉曾(ごそう)が書いた『能改斉漫録』という書によると、徳宗の貞元三年(787)に十六歳の白居易が初めて長安に赴き、
顧況に面会しました。そのときすでに六十歳を越えていた顧況は、若い白居易の名刺をみて
「長安 米貴(たか)し、居(きょ) 大いに易(やす)からず」と言ったそうです。
だが、白居易が差し出した作品に目を通すや、その詩句に感心し、
「箇(こ)の語を道(い)い得れば、居 亦た何ぞ難(かた)からんや、前言は之れに戯(たわむ)れしのみ」と言って称賛したといいます。
児島高徳(こじまたかのり)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる、備前国児島郡林村出身[2]の武将。通称は、三郎、備後三郎で、
備後守とも呼ばれることがあるが正式な官位ではなく単なる通称である。『太平記』中では和田、今木といった苗字で表記される
場合もあり、「児島」を「小島」と書き換える表記も散見される。
元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、
志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。
江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、特に皇国史観の下での学校教育において忠臣・児島高徳は絶好の教材となり、
その結果、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、
近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者である小島法師と同一人物とする説や、
高徳を地元の山伏勢力出身と見る説もある。(ウィキペディア)
さ
崔 顥(さい こう)
(704 - 754年)中国盛唐の詩人。汴洲、現・河南省開封市の人。
若い頃は素行が悪く、博打や酒に溺れ、美人を選んでは妻とするが飽きるとすぐ離縁し、4、5回も妻を変えたという。
江南の各地を旅した後、723年(開元11年)に進士に及第。若い頃は軽薄で浮艶な詩を詠んだが、開元年間の後期、
太原(現山西省太原市)の河東節度使の幕僚となる。この時の辺境での経験から、気骨に富む作風へ変わった。
天宝年間の始めごろ、太僕寺の丞となり、尚書省吏部司勲員外郎(従六品上)に至り、754年(天宝13載)に死去。
崔 氏(さいし)
杜甫の父は杜閑、母は崔氏。崔氏は李王朝の系譜で太宗の孫と言う。
崔宗之(さいそうし)
崔宗之: 崔日用の子。侍御史、斉国公となった。美少年が杯を手に青空に白目をむけば 、
その輝かしさは美しい木が風に揺られるかのようと歌う。
し
始皇帝(しこうてい)
(紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は?(えい)、諱は政(せい)。
現代中国語では、始皇帝(Sh? Huangdi)、または秦始皇(Qin Sh? Huang, チンシュフアン)と称する。
紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。
中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。
統一後始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく
封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、
国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行った。巨大プロジェクトも実行し、万里の長城の建設や、
等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民に犠牲を払わせつつ行った。
また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことでも知られる。
史 思明(し しめい)
唐代の軍人、燕の第3代皇帝。
突厥出身で、安禄山と同郷だったため親しい仲にあった。また、自身も6か国語に通じた教養に通じる人物であったため、
次第に頭角を現していく。幽州節度使の部下であったときに戦功を挙げ、天宝11載(752年)には安禄山の配下となった。
至徳元載(756年)に安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った。
しかし、聖武2年(757年)に安禄山が息子の安慶緒に殺されると安禄山の跡を継いで燕王を称し、
天成3年(759年)には安慶緒を殺害し、さらには長安に迫る勢いを見せたが、順天3年(761年)、
養子を後継ぎにしようとしたために長男の史朝義によって殺された。
司馬懿(しばい)
(179年 - 251年)は、中国後漢末期から三国時代魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、
西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。
『三国志』では司馬宣王と表記されている。青龍2年(234年)、諸葛亮が5度目の北伐を敢行してきた(五丈原の戦い)。
この戦いで司馬懿は郭淮、辛?らと共に防衛に徹した。諸葛亮は屯田を行い、
持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣するが病死し、蜀漢軍は撤退した。蜀漢軍が退却したのち、
司馬懿はその陣跡を見、「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。『漢晋春秋』によると、
司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたが、蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。
その事で人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす(死諸葛走生仲達)」と言った
(のちに習鑿歯が漢晋春秋にてこのことを「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と称し、後年に残る故事成語となった)。
ある人がこの話を司馬懿に報告すると、司馬懿は「生者を相手にすることはできるが、死者を相手にするのは苦手だ」と言った。
司馬相如(しばしょうじょ)
(紀元前179年 - 紀元前117年)中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。
名は、もと犬子(けんし)と言った。
賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓氏との恋愛も有名である。
周 瑜(しゅうゆ)
(175年 - 210年)は、中国後漢末期の武将。字は公瑾(こうきん)。渾名は美周郎。揚州廬江郡舒県(安徽省舒城県)の人。
高祖父は周栄。従祖父は周景。従父は周忠。父は周異。子は周循・周胤・孫登妻。妻は小喬。
建安13年(208年)9月、曹操が荊州に侵攻し劉琮を降伏させた。これを受けて孫権陣営では曹操に降伏するか抵抗するかで
論争が起きた。曹操は兵士数万を有しており、劉表の整備した荊州水軍も手中に治めていたため、
孫権陣営では降伏論者が多数を占めていた。周瑜はその時?陽への使者に出向き呉を留守にしていたが、
主戦論者の魯粛に呼ばれ急いで帰還した。周瑜は曹操を漢の賊と呼び、それへの抗戦を主張し、曹操軍が抱える数々の不利と、
自軍の利を孫権に説いた。これによって孫権は曹操に対抗することを決断した。
孫権は3万の精兵を周瑜や程普らに与え、曹操から逃れてきた劉備と協力して、赤壁の地で曹操軍を迎撃させた。
周瑜の予測通り、この時曹操軍は軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げた。
次に周瑜らは南岸に布陣し、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画した。
降伏を偽装して接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり、岸辺の陣営に延焼した。
被害が多数に及んだ曹操軍は、引き返して荊州の南郡に楯籠った(赤壁の戦い)。
周瑜が劉備と再度合流して追走すると、曹操は曹仁と徐晃を江陵の守備に、楽進を襄陽の守備に残し、
自らは北方へ撤退した(「呉主伝」)。
粛宗(しゅくそう)
唐朝の第10代皇帝。当初の諱は?であったが、後に嗣昇、浚、紹と次々と改名を繰り返し、即位時は亨であった。
生母の楊氏は楊貴妃とは別人である。
玄宗の三男として生まれる。長兄の李琮が早世し、皇太子である次兄の李瑛が737年(開元25年)に武恵妃らにより廃位されると、
その翌年皇太子に立てられた。744年(天宝3載)には「享」と諱を改めている。
755年(天宝14載)11月、安史の乱が勃発すると翌年長安に反乱軍が迫ったことを受け玄宗と共に長安を脱出した。
馬嵬(今の陝西省興平市)での兵士らによる反乱が発生、楊貴妃一族の粛清が行なわれると、玄宗は蜀へ避難し、
李享らは安禄山らに対抗すべく北伐を行った。討伐軍は奉天(陝西省乾県)を経て、朔方節度使の駐屯所である霊武
(寧夏回族自治区霊武市)に到着、7月に側近である宦官李輔国の建言を容れ自ら皇帝に即位、至徳と改元した。
これは玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗は後にこの即位を認め、自らは上皇となった。
即位後は郭子儀の軍を中心にウイグルの援兵を加えて態勢を整えると、粛宗は鳳翔(陝西省鳳翔県)に親征し反撃に転じた。
757年(至徳2載)に、面倒を見た異母弟の永王李璘が江北地方で勝手に軍勢を動かす行為をしたので、
激怒した粛宗は父・玄宗のもとに参内することを命じたが、永王は兄の勅命に従わなかった。
ついに粛宗は江西采訪使・皇甫?と高適に命じて、討伐させた。粛宗は皇甫?に永王を捕虜とした際に自分のもとに護送することを
命じたが、皇甫?は独断で永王を斬ってしまった。
同年に安禄山が自らの息子安慶緒に殺されると、郭子儀や粛宗の長子の広平王李俶(後に豫と改名)と第3子の越王李係らの
活躍により長安や洛陽を奪還、粛宗は10月、玄宗は同12月にそれぞれ長安に帰還した。
しかし、安慶緒や史思明らの残存勢力はなおも存在しており、唐軍と安史軍の膠着状態が継続した。
758年(乾元元年)、粛宗は第五琦を塩鉄使とし塩の専売制を導入、財政の健全化を図りに国家体制の強化を計画したが、
朝政の実権は皇后張氏や李輔国を初めとする宦官達に掌握されており、自らの政治力を発揮することはできなかった。
その後李輔国は張皇后と主導権を巡る政争を引き起こし、両者に不都合な次子の建寧王・李?に謀反計画を名目に自殺に
追い込むなどの事件も発生し、このころから粛宗は病床に就くことが多くなった。
762年(宝応元年)4月、玄宗が崩御した13日後に、安史の乱を終結することなく粛宗も52歳で崩御した。
粛宗が宦官に擁立された事実は、以降唐朝皇帝の擁立に宦官が関与する慣例を生んだ皇帝であると言われている。
舜(しゅん)
中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は姚(よう/とう。子孫は?水のほとりに住み?(ぎ)を姓とした)、
名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。儒家により神聖視され、
堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。
舜は??(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、
父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、
名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。
堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、
また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所には3年で都会になるほどだった。
そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。
舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、
その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。
この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。
この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。
それから20年後、堯は舜に禅譲した。
帝位についた舜は洪水を治めるために禹を採用し、禹はこれに成功した。その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。
なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。
南風歌という歌を作ったと言われている。
陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。
ちなみに白川静は舜は元々帝?の事であって殷の始祖とされていたと言う説を挙げている。
順宗皇帝(じゅんそうこうてい)
唐朝の第13代皇帝。徳宗の長男。
779年に立太子され、805年に徳宗の崩御により即位した。王叔文を翰林学士に任じ、
韓秦、韓曄、柳宗元、劉禹錫、陳諌、凌准、程異、韋執宜ら(二王八司馬)を登用、徳宗以来続いていた官吏腐敗を一新し、
地方への財源建て直し、宦官からの兵権を取り返そうとするなどの永貞革新の政策を行なっている。
だが、即位して間もなく脳溢血に倒れ、言語障害の後遺症を残した。さらに8月には宦官の具文珍らが結託して皇帝に退位を迫り、
即位後7ヶ月で長男の李純に譲位し、自らは太上皇となった。
翌年、病気により46歳で崩御したが、宦官によって殺害されたとも伝えられている。
その在位中の記録として、韓愈の手になる『順宗実録』(『韓昌黎集』外集に所収)が現存する。
焦遂(しょうすい)
唐朝詩人。 事跡 不詳,有口吃,終生布衣。約與李適之同時期,一人能喝酒五斗,?酒時非常健?。
諸葛 亮(しょかつりょう)
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、
その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、
多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。
孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。
親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、
弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。
琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが、出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、
魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。
泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。
生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、
弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。
まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、
従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、
その後劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、
朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、
朱皓は劉?の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、
首を劉?に送られたとなっている。
その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていたという。
この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はいなかった。
ただ親友の崔州平(太尉・崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。
また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、
黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。
周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。
これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。
舅の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。
また、諸葛亮の長姉は?祺の妻、次姉は?徳公の息子の妻であり、?徳公の甥の?統も親戚である。
この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。
劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。
人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は
「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、
やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、
『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と
「鳳雛」、すなわち諸葛亮と?統とを薦めたという話が載る。
また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、
「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは
、実にわけの分らぬ話である」とある。
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、
その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。
これを孔明の出廬と呼ぶ。
建安13年(208年)、劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。
劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、
諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。
そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。
観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、
その頃ちょうど江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。
劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。
同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、
劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、
手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。
孫権陣営は情勢観察のため劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。
諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。この際、孫権から
「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか。」と問われ、諸葛亮は答えた、
「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州(劉備)は王室の後裔であり、
その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。
もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか。」
[1] その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。
戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、
4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された?統が劉備陣営に加わった。
建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。
しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。
劉備は初めこれを渋ったが、?統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は?統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。
諸葛亮は張飛・趙雲らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した(劉備の入蜀)。
建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、
兵站を支えた。また伊籍・法正・李厳・劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。
その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。
劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、
劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。
諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した
。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。
建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。
翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。
劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、
諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、
途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。
この戦いの後、諸葛亮は「法正が生きていれば、殿を説得し、戦を止める事が出来ただろう。仮にそれがかなわなかったとしても、
これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた(法正は建安25年(220年)に死去している)。
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に死去する。
死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。
もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐してくれ。もし我が子に才能がなければ、
君が自ら皇帝となり国を治めてくれ」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、
「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。
また、劉備は臨終に際して諸葛亮に向かい、「馬謖は言葉だけで実力が伴わない。故に重要な仕事を任せてはいけない。
君はその事を懸念しておいてくれ」と言い残した。
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯・開府治事・益州刺史になり、政治の全権を担った。
諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整え、
孫権は魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。
さらに、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華?・王朗・陳羣・許芝、
同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に「正議」を発表し彼らを批判した。
益州南部で雍?・高定らが反乱を起こすが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡を平定。この地方の財物を軍事に充てた。
この時、七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。
建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、
「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章軌範』の評語)と称賛された。
魏を攻める前年、諸葛亮は、以前魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。
孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。
諸葛亮はこれを知ると孟達に手紙を送り、孟達の方も返書を出した。さらに申儀の讒言や司馬懿の疑惑を恐れた孟達は、
魏に反乱を起こそうとした。しかし孟達は司馬懿の急襲を受けて討ち取られた[3]。
翌建興6年(228年)春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、
諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった[4]。
魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。
諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、?を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。
この動きに南安・天水・安定の3郡(いずれも現在の甘粛省に属する)は蜀に寝返った。魏はこの動きに対して張?を派遣した。
諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命したが、
馬謖は配下の王平の諫言を無視して山上に布陣し、張?により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。
街亭を失ったことで蜀軍は進軍の拠点を失い、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。
撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。
撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の語源)、自らも位を3階級下げて右将軍になったが、
引き続き丞相の職務を執行した。
同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行し、その際「後出師表」を上奏したとされるが[5]、偽作説が有力である。
二度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことや、守将の?昭の奮戦により、
陥落できないまま食糧不足となり撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を討ち取っている(陳倉の戦い)。
翌年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。魏将郭淮が救援に向かうが、
諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した。
この功績により、再び丞相の地位に復帰した。
建興9年(231年)春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行い、魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣したが、
張?ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。司馬懿が率いる魏軍は祁山を開放するために、
司馬懿が諸葛亮の軍を、張?が王平の軍を攻撃したが、撃退された。
蜀軍は局地的に勝利したものの長雨が続き食糧輸送が途絶えたため撤退した。
撤退時に追撃してきた魏の張?を伏兵を用いて射殺している[6]。 食糧輸送を監督していた李平(李厳から改名)は、
糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」
と驚いたふりをして責任転嫁をはかろうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾をただしたため、
李平は自分の罪を明らかにした。そこで彼を庶民に落として流罪にした。
建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い、
持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、
同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。
諸葛亮は病に倒れ、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。
諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。この時、魏延は楊儀の指揮下に入ることを拒否して争いを起こしたが、結局楊儀に殺された。
蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し、「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。
諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、
遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。
諸葛亮が死去したとの報を聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、
程なく病を得て死去した。同様に、僻地へ追放されていた廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうだろう」
と嘆き涙を流した。
諸葛亮の死の直後、各地で霊廟を建立したいという願いが出たが、朝廷は礼の制度に背くとして許可しなかった。
また後に成都に諸葛亮の廟を建立すべきだとの意見も提出されたが、劉禅はこれを許可しなかった。
しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀ることがあとを断たなかった。
結局、習隆・向充の上奏を受け、景耀6年(263年)に成都ではなく?陽に廟が建立された[7]。
魏の鍾会は蜀に侵攻した際、諸葛亮の墓の祭祀を行わせた。
す
鈴木虎雄(すずきとらお)
1878年〈明治11年〉1月18日 - 1963年〈昭和38年〉1月20日)は、古典中国文学者。新潟県西蒲原郡粟生津村
(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身。
父は長善館二代館主鈴木惕軒で、その八男(戸籍上は五男)。一時大橋家の養子となり、大橋姓を称したが、
後に鈴木姓に復した。甥には岩手県知事(官選)を務めた鈴木脩蔵がいる。妻は陸羯南次女・鶴代で、
岳父羯南の著作や詩を収めた文集『羯南文録』(大日社、1938年)を編んでいる。
幼少時は長善館で父惕軒に師事する。上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び、1900年(明治33年)、
東京帝国大学文科大学漢学科卒業。日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)
講師・教授などを経て、1908年(明治41年)に新設間もない京都帝国大学文科大学助教授に就任する。
1919年(大正8年)には教授、1938年(昭和13年)に名誉教授。1939年(昭和14年)より帝国学士院会員。
1958年(昭和33年)に文化功労者、1961年(昭和36年)に文化勲章受章。
日本における中国文学・文化研究(中国学)の創始者の一人で、東洋学における京都学派の発足にも寄与した、
著名な弟子に吉川幸次郎と小川環樹らがいる。多くの古典漢詩を訳解を著述し、自身も漢詩を多く作成した。
号を漢詩では豹軒、和歌では葯房と称し「豹軒詩紗」、「葯房主人歌草」などがある。
新聞『日本』では「葯房漫艸」を連載し、病に倒れた正岡子規に代わり短歌撰者を務めた。
晩年には『良寛全集』(東郷豊治編、東京創元社、初版1957年、読売文学賞受賞)の漢詩校閲を行い、最晩年(1962年)に、
私家版で父の詩文集『鈴木惕軒先生年譜』を編んでいる。
追悼文集に『名誉町民 豹軒鈴木虎雄先生』(吉田町教育委員会刊、非売品、1964年)。
生涯にわたり収集した、漢籍を軸とする約14,000冊の旧蔵書は、京都大学文学部図書室に収蔵され、蔵書目録が発刊されている
(鈴木文庫目録 正・続編, 1956-68年)。
せ
西施(せいし)
中国,春秋時代末,越国の美女。《荘子》など戦国諸子の書物の中にすでに美女の代表としてその名が見えるが,
彼女の事跡が詳しく記されるのは《呉越春秋》など以後で,現在の民間伝説にいたるまで,
その物語は時代とともにふくらんできた。そうした伝説をまとめれば,西施は,姓は施,名は夷光,
浙江省諸曁(しよき)の苧夢(ちよぼう)村の生れ。美人であったため,敗国の辱をすすごうとする
越王句践(こうせん)が呉王夫差(ふさ)のもとに彼女を送りこみ,政治を怠らせようとした。
本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)
生まれだと言われている。
現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、
彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施→西施と呼ばれるようになった。
越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。
貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。
策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを
妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。
その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。
この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。
また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。
中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったともいわれており、
それが西施の場合は大根足であったとされ、常に裾の長い衣が欠かせなかったといわれている。
逆に四大美女としての画題となると、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったという
俗説から「沈魚美人」とあてられる。
清少納言(せいしょうなごん)
康保3年頃(966年頃) - 万寿2年頃(1025年頃))は、平安時代の女流作家、歌人。随筆「枕草子」は有名。
天延2年(974年)、父・元輔の周防守赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、『枕草子』における船旅の描写は、
単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか。この間の京への想いは、
のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。
天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光(965年 - 1028年以後)と結婚し、翌年一子則長(982年 - 1034年)を生むも、
武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、
枕草子の記述によれば長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。
のち、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた[10]。
一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、
主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。
藤原実方(? - 998年)、藤原斉信(967年 - 1035年)、藤原行成(972年 - 1027年)、源宣方(? - 998年)、
源経房(969年 - 1023年)との親交が諸資料から窺える。ことに実方との贈答が数多く知られ、恋愛関係が想定される。
清少納言の名が今日まであまねく知られているのは、残した随筆『枕草子』によるところが大きい。『枕草子』には、
「ものはづくし」(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、
清少納言が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。
長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。
その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に
下ったと思われ、『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。
晩年は亡父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の
女房とも消息を交わしていたという(『公任集』『和泉式部集』『赤染衛門集』など)。
没年は不明で、墓所が各地に伝承される。
前漢元帝(ぜんかんげんてい)
前漢の第10代皇帝。在位期間前48年1月10日 - 前33年7月8日
宣 帝(せんてい)
宣帝(せんてい、紀元前91年 - 紀元前49年、)は、前漢の第9代[1]皇帝(在位:紀元前74年 - 紀元前49年)。
初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝となった。
諱は病已(へいい)、即位した後に「病已」では諱を避けにくいことから詢(じゅん)と改名した。
字は次卿。正式な諡号は孝宣皇帝。廟号は中宗。
武帝の曾孫で戻太子劉拠の孫。父は戻太子の子・悼皇(史皇孫)劉進。生母は王氏である。
紀元前91年、巫蠱の乱により、曾祖母(戻太子の母)の皇后・衛子夫、祖父、祖母の史氏、父の史皇孫、母の王氏、
兄と姉が共に処刑された。生後間もない劉病已は投獄されたが丙吉により養育され、
恩赦により解放されると病已は一時的に民間で育てられた。やがて掖廷で養育することとなり、
掖廷令の張賀(張安世の兄)が病已の後見役となり、張安世の息子・張彭祖が学友となる。
彼の住処は長安郊外の尚冠里であった。
紀元前74年、昭帝が崩御し、昌邑王・劉賀が一時即位するが、品行不良を理由に廃立されると、霍光等の推薦により、
皇太后(上官氏)の詔を受け、まずは陽武侯に封じられて間もなく即位した(宣帝)。
昭帝の死から廃帝賀の廃位を経て、宣帝の即位にいたるまでの一連の流れは、霍光の主導によるものであり、
政局は引き続き大司馬大将軍である霍光に委ねられた。
紀元前69年、霍光が死去すると増長、肥大化しつつあった霍氏一族の権力、
特に軍の指揮権を徐々に剥奪し外戚の許氏らの子弟に与え、これに反発した霍光の遺児が反乱を企てると、
これを契機に霍氏一族を処刑した。宣帝廃位後、帝位を襲う予定であった大司馬霍禹は腰斬の刑に処された。
皇后の地位にあった霍氏(霍光の娘)も廃位して幽閉し、霍光の死から2年後に親政を開始した。
親政後の宣帝の政策は法家主義的政治信条に則り、減税や常平倉の設置、国民への爵位の授与、
中央(中書を通じての皇帝への直接の上奏と尚書の権限の縮小)と地方(地方行政を県中心から郡中心へ移行)
での行政改革、犯罪を取り締まるための刑罰の強化といった、
国民を休養させつつ中央政府の権力を強めんとする内政重視のものであり、これらの政策が行われた結果、
武帝以降の国内の疲弊を緩和させることに成功した。これらは民間で育ち、民衆の実情を知る宣帝ならではの施策であった。
一方、外政においては、烏孫と連携をとり、西域に進出し、匈奴を弱体、分裂化させ、
紀元前51年には匈奴の呼韓邪単于を降伏させる等、一時期、弱体化していた漢の国勢を復興させることに努めた。
これら内外の政治に於ける成果から、宣帝は前漢中興の祖という評価を受けている。
しかし、中書を通じての直接の上奏は、中書の任にあたった宦官の権力を強めることとなり、
彼等が次の元帝の時代に外戚と組んで政治に大きな影響を及ぼす一因となったことは否めない。
現実主義者であったため、理想主義、懐古主義である儒教を嫌い、
儒教に傾倒する皇太子(後の元帝)とは反りが合わず廃嫡を考えた事があるが、
元帝に後嗣が生まれたことを理由に廃嫡を見送った。
そ
宋 玉(そうぎょく)
戦国時代末の文学者。楚の大夫で,屈原の門下であったといわれるが確かではない。
賦の作者で,屈原に次ぐ者として「屈宋」と並称される。『楚辞』に収められる『九弁』『招魂』や,
『文選 (もんぜん) 』に収められる『風賦』『高唐賦』『神女賦』『好色賦』『対楚王問』などが残っているが,
これも多くは後人の作といわれる。
曾子(そう し)
(紀元前505年 - 没年不詳)は、孔子の弟子で、儒教黎明期の重要人物である。諱は参(しん)。字は子輿(しよ)。
父は曾点(子皙)[1]、子に曾申。十三経の一つ『孝経』は、曾子の門人が孔子の言動をしるしたと称されるものである。
また、孔子の孫子思は曾子に師事し、子思を通し孟子に教えが伝わったため、孟子を重んじる朱子学が正統とされると、
顔回・曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。
曾参は魯の武城(現在の山東省臨沂市平邑県武城)出身で、孝の道(親孝行)に優れており、孔子より見込まれ、
『孝経』を著したという説がある。
弟子には『呉子』の著者である呉起がいたが、母の葬儀を上げなかったとして破門している(呉起は曾申に学び、
破門したのは子の曾申ともされる)。
また「曾参、人を殺す」と言う言葉の中に姿を残している。この話は「ある時に曾参の親類が人を殺し、
誰かが誤って曾参の母に「曾参が人を殺した」と報告した。母は曾参のことを深く信じていたのでこれを信用しなかったが、
二度・三度と報告が来ると終いにはこれを信じて大慌てした」といわれる。これは『戦国策』に載っている説話で、
あまりに信じがたい嘘であっても何度も言われると人は信じてしまうと言う意味の言葉だが、
このような説話に使われる事は逆に曾参の人柄と母との間の深い信頼関係が当時の人にとって常識であったと言うことを
示している。
それ以外にも母との絆についての逸話は、曾参が柴刈りに行き留守中に来客が来たものの母が客人をどうもてなせば良いのか
わからず、母は曾参の帰宅を促すために自分の指をかみ続けた。すると、曾参の胸が痛み帰宅し客人に気付き曾参が
客人をもてなしたという。これは『二十四孝』に記載されている。
曹 操(そうそう)
曹 操(そう そう、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日)は、中国後漢末の武将、政治家。詩人、
兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞また吉利。沛国?県(現在の安徽省亳州市。
また河南省永城市という説もある)の人。
後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。
曹操は「槊を横たえて詩を賦す[30]」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの文人たちを配下に集めて文学を
奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は建安文学の担い手の一人であり、
子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。曹操は軍隊を率いること30数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、
高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞にしたという[31]。その記述の通り、現存する曹操の詩は、
いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞であり、代表的な作品として『文選』27巻 樂府上 樂府二首[32]に収録された
下に記す「短歌行[33]」が有名である。
對酒當歌 人生幾何 譬如朝露[34] 去日苦多
慨當以慷 憂思難忘 何以解憂 唯有杜康[35]
(後略)
? 『昭明文選』27巻 樂府上 樂府二首 短歌行[36]
操の詩に関する後世の評価には、梁の鍾嶸『詩品』下巻 魏武帝魏明帝[37]の「曹公古直 甚有悲涼之句」
(古直にして、甚だ悲涼の句)、明の周履靖の「自然沈雄」、陸時雍の「その言、鋒を摧(くだ)く斧の如し」、
清の沈徳潜の「沈雄俊爽、時に覇気露わす」などがある。また、沈徳潜は曹操の詩には漢の空気が残り、
曹丕以後は魏の作品であると記している。中国文学研究者の松本幸男は、曹操以後に従軍文学と言うべき作が多いと指摘している。
現存する彼の詩作品は多くはないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。
改革開放の父、鄧小平は、三度目の復活を果たした1977年7月、「志在千里 壯心不已」という心境をもらした。
老いてなお進取の意気込みを示した言葉は、曹操の「?出夏門行」龜雖壽[38](208年頃の作品)という楽府からの引用である。
曹 丕(そうひ)
三国時代の魏の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。
曹操と卞氏(武宣皇后)との長子として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とした。
初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父の軍中に従軍していた。
建安2年(197年)に曹操の正室の丁氏が養子として育て、嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が戦死すると、
これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。次兄の曹鑠も程なく病死し、
一介の側室でしかなかった生母の卞氏が曹操の正室として迎えられた。
以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになる。やがて曹丕は文武両道の素質を持った人物に成長することとなった。
『三国志』魏書によれば、曹丕は茂才に推挙されたが、出仕しなかった。
曹操の下で五官中郎将として副丞相となり、曹操の不在を守るようになった。
建安22年(217年)に曹操から太子に正式に指名される。通説ではこの時に弟の曹植と激しく後継争いをしたと言われるが、
実際にそうだったかは怪しまれる。むしろ、兄弟の側近たちによる権力闘争であったという方が正確であろう。
建安24年(219年)には、曹操不在時に魏諷の反乱未遂計画を鎮圧した。
建安25年(220年)に父が逝去すると、魏王に即位し丞相職を受け継ぐ。王位についたばかりの頃、
私兵四千家あまりを統率して孟達が魏に帰伏し、大いに喜び孟達を厚遇した。当時、大勢の臣下のうちで、
孟達への待遇があまりに度はずれであり、また地方の鎮めの任を任すべきでないと考えるものがあった。
これを耳にすると、「私が彼の異心なきことを保証する。これも例えてみれば、蓬の茎で作った矢で蓬の原を射るようなものだ
(毒を以て毒を制すの意)」といった。
その後、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即いた。ただし、表向きは家臣達から禅譲するように上奏し、
また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣達に重ねて禅譲を促されるという形を取った。
18回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、三国時代に入ることとなる。
文帝は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ国土を安定させた。特に陳羣の進言による九品官人法の制定は、
後の世に長く受け継がれた。
則天武后(そくてんぶこう)
生年 武徳6年(623年)?没年 神龍元年11月26日(705年12月16日)。在位期間 690年10月16日 - 705年2月22日。
中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照(?)。
日本では則天武后(そくてん ぶこう)と呼ばれることが多いが、
この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。
一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。
その他、唐の第二代皇帝太宗に媚娘と号され、第三代皇帝高宗には「昭儀」と号され、尊号「天后」を受けた。
武周建国以降は、聖母神皇、聖神皇帝、則天大聖皇帝、金輪聖神皇帝、越古金輪聖神皇帝、慈氏越古金輪聖神皇帝、
天冊金輪聖神皇帝などがある。
蘇東坡(そとうば)
中国北宋の詩人・政治家。四川省生。名は軾、字は子瞻、東坡は号。文人として世に知られる。
詩文を通じて、その作品の力強さは、人間愛の深さ、不屈の意志、激しい正義感など、人間としての偉大さに発するといわれる
。画は枯木・竹石・寒林を得意とし、書は若年に王羲之、晩年には顔眞卿を学んだ。政治家としては、
いずれの党派に対しても常に批判的立場をとった。徽宗元年(康和3)歿、66才。
蘇 晋(そしん)
蘇?の子。玄宗の詔勅 などを起草し、太子左庶子、吏部侍郎となった。
蘇廷(そてい)
李白が二十歳になったとき、都で礼部尚書(正三品)をしていた蘇廷(そてい)が左遷され、
成都にあった益州大都督府の長史(次官)になって赴任する際李白と遭遇します。
蘇廷は 李白の才能を認めるも部下として採用はしませんでした。
孫 権(そんけん)
三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。
なおよく並べられる曹操・劉備とは(父孫堅が同世代なので)およそ1世代下にあたる。
208年(建安13年)には父の仇である黄祖を討ち取った。同年、曹操が大軍を率いて南下してくると、
孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪びとを討伐せんとし、軍旗が南に向ったところ、
劉琮はなんら抵抗も示さず降伏した。今度は水軍八十万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟[4]を
いたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった。
[5]豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、帰順派(張昭・秦松等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派(周瑜・魯粛等)
の意見及び孫権に救援を求めるために魯粛に随行する形で劉備から派遣された諸葛亮の説得により開戦を決断した。
孫権は刀を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(つくえ)を斬りつけて、「部将や官吏たちの中に、
これ以上、曹操を迎え入れるべきだと申す者がおれば、この案(つくえ)と同様になるのだ。」と言った。
[6]かくして孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより曹操の
水軍を大いに破る。
た
太公望(たいこうぼう)
呂尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。
姓は姜、氏は呂、字は子牙[2]もしくは牙[3]、諱は尚とされる[4]。軍事長官である師の職に就いていたことから、
「師尚父」とも呼ばれる[3][注 1]。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)
という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる[5]。
歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である[4]。
殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは
確認されていない[6]。
『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四岳の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている[4][7]。
一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、
土地名にちなんだ呂姓を称したという[4][3]。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する
[2][3]。
また周に仕える以前は殷の紂王に仕えるも紂王は無道であるため、立ち去り諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、
最後は西方の周の文王のもとに身を寄せたと伝わる[8]。周の軍師として文王の子武王を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防い
だ[9]。殷の王である帝辛(受王、紂)を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省?博市臨?区)を中心とする
斉の地に封ぜられる[10]。
営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、
儀礼を簡素にしたという[7]。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した[4]。
また、斉は成王から黄河、穆稜(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、
反乱者を討つ権限を与えられた[11]。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は没時に100歳を超えていたという[11]。
しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした[12]、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと
解される[4]。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある[4][13]。
春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った[14]。
呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に
建立された[15]。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり[15]、
文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは
不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた[15]。
呂尚が文王に仕えた経緯については、『史記』に3つの逸話が紹介されている。
しかし、いずれの逸話も信憑性に疑問がもたれている[16]。
文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ると出た。狩猟に出ると、落魄して渭水で釣りをしていた
呂尚に出会った。二人は語り合い、文王は「吾が太公[注 2]が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。
そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、太公望と号した。3つの逸話の中で一般に知られているのは、
この説である[17]。陝西省宝鶏には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。
元々呂尚は殷に仕えていたが、帝辛の悪行に反発して殷を出奔した。諸侯の元を遍歴した後、文王に仕える。
呂尚は東方の海浜に隠棲していたが、周の臣下で旧知の仲である散宜生と?夭の誘いで?里で拘禁されていた文王に会おうとした。
呂尚は帝辛に美女と財宝を贈ることを提案し、文王を釈放させた後、周に仕官した。
呂尚は、後世の兵法と周の権謀術数を論じる人間の尊敬の対象とされた[3]。兵法書『六韜』は呂尚の著書とされたが、
『六韜』は後代の人間による著作であり、実際に書かれた時期は戦国末期以降と考えられている[18]。
また、呂尚は『三略』の著者にも仮託されている[2]。
後秦の王嘉が編集した『拾遺記』に収録されている有名な説話として、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを
戻そうと来たがこれを拒んだ話がある(「覆水盆に返らず」)[2]。『漢書』に収録された朱買臣の逸話など、
中国には類似するエピソードが多く存在する[19]。
明代の学者・謝詔が著した「風月夢」第十回には「姜太公釣魚願者上鉤」という句があらわれる[20]。
太宗(たいそう)
598年1月28日-649年7月10日 在位期間 626年9月4日 - 649年7月10日
唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、
後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、
中国史上最高の名君の一人と称えられる。
代宗(だいそう)
代宗(だいそう)は、唐朝の第11代皇帝。粛宗の長男。姓諱は李 俶(り しゅく)、のち李 豫(り よ)。
生母呉氏の実家は有力な貴族であったが、謀反の嫌疑により誅滅された。このような血統を引いた李豫であったが、
祖父である玄宗に素質を認められ、広平王に封ぜられた。粛宗が皇帝として即位すると兵馬大元帥に任じられ、
郭子儀らと共に安慶緒により占拠されていた長安や洛陽などを奪回した。このとき回?族を援軍として招き入れていたことが、
後々の外患の原因の一つとなっていく。また、安史の乱の残党勢力討伐のために河北三鎮などの節度使の援助を求めたことから、
節度使の権力を増長させてしまうことになった。
758年(乾元元年)、粛宗の皇后張氏と宦官の李輔国により立太子され、762年に玄宗と粛宗が相次いで崩御すると
皇帝として即位した。しかし、朝政は李輔国が掌握していた。国政を自ら掌握しようとした代宗は、宦官である程元振を抜擢、
謀反を理由に李輔国を誅殺した。だがこの粛清も、結局は程元振が朝政を掌握したに過ぎず、続いて重用された宦官である
魚朝恩の場合も同様であった。このような内廷での粛清は、宦官の権力増大の原因といわれている。
外交面では763年(広徳元年)に、吐蕃の侵攻により長安を一時的に奪われ、章懐太子李賢の孫の李承宏(中国語版、英語版)
(在位:763年11月18日 - 763年11月30日)が帝位に据えられる事件が発生している。
これは宦官が軍権をも握り、武将の軍功への論功を抑制するなど、武官を冷遇したため辺境防備が弱体化した結果である。
その後、代宗は財政再建のために塩の専売化を初めとする様々な政策を実行したが、抜本的な財政健全化は実現しなかった。
高倉天皇(たかくらてんのう)
応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、
平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。
諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。
母・平滋子は平清盛の妻・平時子の異母妹であり、政界の実力者・清盛の義理の甥にあたる事に加えて、
当時政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、
まだ皇子のなかった二条天皇の後継に擁立する動きがあり、誕生直後の9月15日、叔父の平時忠と清盛の弟・
平教盛は二条天皇により解官されている。永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、
その死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)の3歳の年長であるにも関わらず、
仁安元年(1166年)10月10日、皇太子に立てられた。2年後の仁安3年(1168年)2月19日、六条天皇をわずか5歳(満3歳)
で退位させ、8歳で天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷いた。
承安2年(1172年)、平清盛と時子の娘(つまり従姉に当たる)平徳子(後の建礼門院)を中宮に迎える。
治承2年(1178年)11月12日、中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、同年12月15日には皇子を早々に皇太子とした。
翌治承3年(1179年)11月、父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河院が
事実上の幽閉状態に置かれると、高倉天皇自ら政務をとった。翌治承4年(1180年)2月、
平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲り、院政を開始するが間もなく病に倒れた。
後白河院と平氏の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平氏一門と組んで政治を推し進める
意図を持っていたとの説や後白河院がこれを嫌って自分の皇子(天皇の異母弟)を天皇の養子にして
譲位させようとしていたとする説も出ている[1]。色白で美しい容姿であり、その人柄は多くの廷臣から慕われていたという。
卓文君(たくぶんくん)
司馬相如との熱烈な恋愛で知られいる。漢の成帝の時代に、四川の巨商卓王孫の娘として生まれ、16歳にして
ある男に嫁いだ。しかし、すぐに死に別れ、父親の家に戻っていたとき、客分として宴会に招かれていた司馬相如の琴の音に
感じ入り、たちまちに恋におちた。父の反対を押し切り、司馬相如とともに駆け落ちした。
貧乏な二人は生活の資を得るために、酒屋を開き、そこで卓文君もけなげに客をもてなす仕事をした。父親はそんな娘の姿を
目にして考えを改め、娘ら夫婦に相応の資金を与えた。
伊達 政宗(だて まさむね)
出羽国と陸奥国の戦国大名・伊達氏の第17代当主。仙台藩初代藩主。
伊達氏第16代当主・伊達輝宗と正室最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれた嫡男。
秀吉が吉野で歌会を開き武将達はそれぞれ詩歌を詠んだ時、政宗が最も和歌に精通し優れていた。
そのため秀吉も「鄙の華人」と褒め讃えた。詩才に関して、司馬遼太郎は短編小説『馬上少年過ぐ』の中で、
歴史上高名な武将のものとしては古代中国の曹操にも比肩すべきものとしており、政治家としての側面には
その詩心が反映されていないことも二人の共通点であるとしている。
晩年の政宗が残した漢詩に『酔余口号』という作品がある。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、
隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。
馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずんば是いかん/楽しまずして是を如何にせん
前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。
天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は「楽しまずんば是いかん
(これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまずして是を如何にせん
(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う2通りの訓みと解釈ができてしまう。
政宗自身がどちらともとれるように作った可能性もあるが、政宗の残した大きな謎となっている。
ち
張 謂(ちょう い)
(711年? - ?)は、中国・唐の詩人。河内(河南省沁陽市)の出身。字は正言。初めは嵩山にこもって読書し、大志を抱いていた。
天宝2年(743年)、進士に及第、節度使の幕下に加わって西域に従軍した。
大暦初年(770年頃)には潭州(湖南省長沙市)刺史となり、大暦7年(772年)には礼部侍郎に至って、科挙の試験を司った。
張九齢(ちょうきゅうれい)
(678年 - 740年)
韶州曲江(広東省)の出身。702年に進士に及第し、寒門の出ではあったが宰相の張説に認められて校書郎・右拾遺・中書侍郎を
歴任し、玄宗時代の733年以降は尚書右丞相の任にあたった。 のち、李林甫や楊国忠らと衝突し、荊州(湖北省)に左遷され、
官を辞した後は故郷に帰り文学史書に親しんだ。 安禄山の「狼子野心」を見抜き、「誅を下して後患を絶て」と玄宗に諫言した人
としても知られる。 「開元」最後の賢相」として名声高く、孟浩然や王維に希望を託されたこともある。
王夫之はその『讀通鑑論』のなかで「貞観の時には才臣はいたが、清廉な者はいなかった。ただ開元の時に出た宋璟・盧懐慎・
張九齢は清貞という徳を以て宰相に昇った。張九齢は清にして和、名声を追わず富を絶ち、朝廷に廉恥の心を知らせ、開元の世を
盛んにした」と絶賛している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%B9%9D%E9%BD%A2
張 旭(ちょうきょく)
張 旭(ちょう きょく、生没年不詳)は中国・唐代中期の書家。字は伯高。呉郡(現在の江蘇省蘇州市)出身。
官は左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことから張長史とも呼ばれた。
草書を極めるとともに、従来規範とされて来た王羲之と王献之、いわゆる「二王」の書風に真正面から異を唱え、
書道界に改革の旋風を巻き起こすきっかけとなった。
詳しい経歴は不詳であるが、地元(現在の常熟市)で官位を得たあと長安に上京、官吏として勤めながら顔真卿・杜甫・賀知章
らと交わり書家として活動していた。
張旭はその書に対する態度に関しても、また生活態度に関しても、実に型破りな人物であった。
李肇の『唐国史補』によると、かつて公孫大娘という舞姫による剣器の舞を目にし、草書の筆法を悟るヒントを得たという。
「張旭の草書 筆法を得て、後ち崔?・顔真卿に伝ふ。旭の嘗て曰く、『始め吾 公主・担夫を見て路を争ひ、
而して筆法の意を得る。後ち公孫氏の剣器を舞ふを見て、而して其の神を得る』と」。後年、杜甫は公孫大娘の弟子の
李十二娘による舞を目にし、「観公孫大娘弟子舞剣器行」と題した詩に詠んでいる。
その序によると、「昔者、呉人・張旭、草書の書帖を善くし、数々嘗て?県に於て公孫大娘の西河の剣器を舞ふを見、
此れより草書長進す」といっている。
このことは、同時代の書家からすればどだい型破りな話であった。当時の書道界は六朝以来、王羲之・王献之親子の「二王」の
書法を尊んでおり、書家はまず「二王」の書から学んで書を体得するのが普通だったからである。
また欧陽脩の『新唐書』の伝によると、「酒を嗜み、大酔する毎に、呼叫・狂走して、乃ち筆を下し、
或いは頭を以て墨に濡らして書く。既に醒めて自ら視るに、以て神と為し、復た得る可らざるなりと。
世 『張顛』と呼ぶ」と伝え、その書は「狂草」と呼ばれた。前述の「飲中八仙歌」によれば王や貴族の前ですらそうした
行動をいとわなかったと詠まれている。李白はまた後年、若き草書の達人・懐素を詠んだ「草書歌行」の中で、
「張顛は老死して数ふるに足らず、我が師は此の義 古へに師せず」と評している。
これらの伝説には多分に誇張があるにしても、彼が権威を嫌い、ものともしない型破りな人物であったことは
事実だったようである。このことが彼自身やその書作をそれまでの書道界の「常識」への叛逆と挑戦へと向かわしめたと思われる。
なお、彼の書は、あまりにも急進的すぎるため杜甫などごく親しい人以外には受け入れられなかったようだが、
彼の登場により「二王」一辺倒の書道界に一石が投じられ、のちの顔真卿ら改革派の書家が台頭するに至ったと考えられる。
なお、顔真卿・李陽冰は彼の弟子と言われているが真偽のほどは定かではない。
張 芝(ちょうし)
後漢時代の書家。字は伯英。敦煌酒泉(甘粛省)の人。父は太常になった名臣である。幼少の頃より学問にはげみ、
朝廷から推挙されたが辞して就かなかった。生涯仕官せず、世を避けた潔白の士として生涯を終えた。
張芝は平生から書を好み、家にある白絹はすべて文字を書いたのちに練って漂白した。また池に臨んで字を書き、
池の水が真っ黒になったという逸話も有名である。
書は崔?、杜度を師として学び、とりわけ草書にすぐれた。世間は張芝の書を珍重し、
わずかな切れ端でも棄てることなく保存したという。張芝の草書は骨力を具え、表現が豊かであると評され、草聖と称された。
趙 飛燕(ちょう ひえん)
(? - 紀元前1年)は前漢成帝の皇后。元名を宜主と称した。
正史である『漢書』での趙飛燕に関する記述は非常なものであるが、稗史においては美貌を以って記述されており、
優れた容姿を表現する環肥燕?の燕痩が示すのが趙飛燕である(環とは楊貴妃の事、幼名・玉環による)。
その出生は卑賤であり、幼少時に長安にたどり着き、号を飛燕とし歌舞の研鑽を積み、その美貌が成帝の目にとまり
後宮に迎えられた。後宮では成帝の寵愛を受け、更に妹の趙合徳を昭儀として入宮されることも実現している。
成帝は趙飛燕を皇后とすることを計画する。太后の強い反対を受けるが前18年12月に許皇后を廃立し、
前16年に遂に立皇后が実現した。前7年、成帝が崩御すると事態が一変する。成帝が急死したことよりその死因に疑問の声が上がり、
妹の趙合徳が自殺に追い込まれている。こうした危機を迎えた趙飛燕であるが、自ら子がなかったため哀帝の即位を支持、
これにより哀帝が即位すると皇太后としての地位が与えられた。しかし前1年に哀帝が崩御し平帝が即位すると支持基盤を失った
趙飛燕は、王莽により宗室を乱したと断罪され皇太后から孝成皇后へ降格が行われ、更に庶人に落とされ間もなく自殺した。
陳 鴻(ちんこう)
生没年不詳。中国、中唐の史学者、小説作者。805年(永貞1)に進士に合格、歴史書『大統記』を書き、尚書主客郎中になった。
806年友人の白居易(はくきょい)および王質夫(おうしつふ)と(ちゅうしつ)(陝西(せんせい)省)の仙遊寺に遊び、
玄宗(げんそう)と楊貴妃(ようきひ)のロマンスを語り合い、『長恨歌伝(ちょうごんかでん)』を書いた。
『長恨歌伝』は「長恨伝」ともいい、王質夫が白居易に勧めて長編物語詩『長恨歌』をつくらせたあと、
陳鴻にその解説として書かせたものである。内容は、愛する元献皇后や武淑妃(ぶしゅくひ)を失って落胆していた玄宗は、
楊玄(ようげんえん)の娘を貴妃に冊立(さくりつ)して寵愛(ちょうあい)する。楊一族は権勢を振るい、
ことに楊国忠は宰相となって専横の行為が多く、ついに安禄山(あんろくざん)の乱を引き起こす。玄宗は成都に亡命の途中、
馬隗亭(ばかいてい)で軍人に迫られて貴妃を殺す。乱後、玄宗は貴妃を忘れられず、道士に彼女の魂を捜させる。
伝言と証拠の金の釵(かんざし)と螺鈿(らでん)の盒子(ごうす)を得た玄宗はいよいよ悲しみに暮れる、という筋。[内山知也]
儲光羲(ちょこうぎ)
(707ー約760),唐代詩人。充州(今屬山東)人。一説通州(今江蘇鎮江)人。玄宗開元進士,官監察禦史。
安祿山陷長安時曾受偽職。後被貶,死於嶺南。現存「儲光義詩」。
と
杜宇(とう)
長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し、
自ら帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、「望帝」は山中に隠棲した。
望帝杜宇が死したとき、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるために鳴いた。
杜宇の化身したホトトギスの鳴き声は鋭かったという。また、後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の
化身であるホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず=帰りたい)と、血を吐くまで鳴いたという。
ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。ホトトギスの激情的なさえずりは、
和歌に多く詠まれている。
陶 淵明(とう えんめい)
(365年興寧3年ー427年元嘉3年)中国魏晋南北朝時代、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字は淵明。
死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。
潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し
、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。
陶淵明の四言詩「子に命(なづ)く」によると、その祖は神話の皇帝、帝堯(陶唐氏)に遡るという。
祖先は、三国呉の揚武将軍・陶丹であり、陶丹の子で東晋の大司馬・長沙公の陶侃は曽祖父にあたり、
祖父の陶茂は武昌太守となったというが、詳しい事は不明である[3]。母方の祖父には孟嘉がいる。
いずれも門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門」と呼ばれる下級士族の出身であった。
陶淵明は393年、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれたが就任を辞退する。
399年、江州刺史・桓玄に仕えるも、401年には母の孟氏の喪に服すため辞任。404年、鎮軍将軍・劉裕に参軍(幕僚)
として仕える[4]。これらの出仕は主に経済的な理由によるものであったが、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、
短期間で辞任している。405年秋8月、彭沢県(九江市の約90km東)の県令となるが、80数日後の11月には辞任して帰郷した[5] 。
以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之、
匡山に隠棲した劉遺民と「潯陽の三隠」と称された。隠棲後の出来事としては、408年、火事にあって屋敷を失い、
しばらくは門前に舫う船に寝泊りする[6]、411年、住まいを南村に移すも[7]、
同年、隠遁生活の同士であった従弟の陶敬遠を喪う[8]、という事があった。
この間も東晋および劉裕が建国した宋の朝廷から招かれたがいずれも応じなかった。
427年、死去。享年63[1]。その誄(追悼文)は、友人で当時を代表する文人の顔延之によるものであった。
徳宗皇帝(とくそうこうてい)
唐朝の第12代皇帝。代宗の長男。
父代宗が即位すると大元帥に任じられ、安史の乱の終息に務めた。
764年(広徳2年)皇太子となり、779年(大暦14年)代宗の崩御にともない即位した。
即位後は唐の財政再建に尽力し、楊炎の進言に従って両税法を施行し税制面の改革に着手した。
また節度使を抑制するために兵力削減や世襲禁止などの抜本的な改革を行なおうとしたが節度使の反発を招き、
河朔三鎮・河南二鎮反乱により長安を追われてしまった。このため784年に『罪己詔』を発して、
節度使に対する不介入を約束した上で混乱を収束した。徳宗の改革は短期間で失敗に終わり、
さらなる財政的に困難な状況を生み出した。そして節度使の権力は更に強まり、唐の権力は一層の弱体化に見舞われた。
徳宗の治世は両税法の改革などから中興の治と称されているが、具体的な成果は乏しい。
ただし後世の憲宗による節度使抑制の成功は、徳宗時代の失敗の教訓が活かされた結果とも言われる。
(唐)高宗(こうそう)
唐朝の第3代皇帝。太宗の第9子。母は長孫皇后。皇帝ではなく天皇の称号を使用したことでも知られている。
父太宗の晩年に、皇太子であった同母長子の李承乾と第4子の魏王李泰が内訌を理由に共に廃立された。
母方の伯父の長孫無忌の進言もあり、第9子の李治が代わって皇太子に立てられ、太宗の死にともない皇帝に即位した。
太宗に溺愛された異母兄の呉王李恪(隋の煬帝の外孫でもあった)を擁立する動きが見られたため、
長孫無忌は呉王に謀反の嫌疑をかけて自殺に追い込み、一族を処刑した。
668年、新羅と共同(唐・新羅の同盟)して、隋以来敵対関係にあった高句麗を滅亡させる(唐の高句麗出兵)。
こうして新羅を除く朝鮮半島を版図に収め、安東都護府を設置、唐の最大版図を獲得したが、
676年に新羅が朝鮮半島全土を統一(唐・新羅戦争)すると、朝鮮半島経営を放棄した。
この時期になると、外戚の長孫氏が皇后である武氏の一派によって追放され、
代わって武后が政治の実権を掌握するようになっていた。このため高宗は武后廃立を計画したが、失敗する。
後に丹薬による中毒で眼病を患い、唐の実権は完全に武后により掌握された。このような状況の中683年に崩御した。
病気がちであった高宗は、政治において主導権を発揮することはなく、最初は外戚の長孫氏、
後に皇后の武氏に実権を握られ続けた皇帝であった。
唐汝詢(とうじょじゅん)
唐詩集註. 巻之1-7 / 李攀竜 選 ; 蒋一葵 註 ; 唐汝詢 觧 ; 宇鼎 纂 ; 顕常 集補
杜康(とこう)
古代中国では儀狄(ぎてき)と杜康(とこう)という酒の神がいたが、
後者に由来 して良い酒を造った者に杜康という氏を授けたことに由来するとする説である。
京都の ... 音としては刀自(とじ)を継ぎ、杜康の字をそれに宛てるようになったとする説である。
杜 審言(と しんげん)
645年(貞観19年) - 708年(景龍2年))は中国・唐代(初唐)の詩人。
襄州襄陽(現在の湖北省襄陽市)の人。字は必簡。西晋代の杜預の子孫に当たり、杜依芸の子。
子に杜閑・杜并ら、孫に杜甫がいる。
670年(咸亨元年)進士となり、隰城県(河南省)の尉となった。自らの才能を恃むところ頗(すこぶ)る強く
、大胆な放言をしては周囲から憎悪されていた。また、杜審言は立場が上の人間に対する態度は弱く、
武則天に召し出された時には、必要以上に媚び諂って感謝するという有様であった。しかし、詩を絶賛されたり、
李?・崔融・蘇味道らと共に「文章四友」と呼ばれるなど、その才能は認められていた。
705年(神龍元年)頃、武則天の寵臣・張易之らと親しくしていたために左遷され、峰州(ベトナム近く)に流された。
その後、都に戻って国子館主簿・修文館直学士になり、病死した。死に際しても見舞いに来た友人の宋之問らに
「わたしの才能が今まで君達を押さえ込んできたが、これからわたくしが死ぬからにはさぞ喜ばしかろう」
などと言い放ったという。
杜 閑(と せき?)
杜甫の父は杜閑(とせき)、母は崔(さい)。母崔は杜甫 の幼少時に亡くなり、杜甫は叔母のもとで育てられました。
杜閑(682-741),唐修文?直学士杜審言幼子,“??”杜甫的生身父?。生于唐高宗永淳元年(682年),?元五年(717年)??城尉,
?元二十年(732年)左右擢?奉天令,?元二十五年(737年)前后擢?朝?大夫?州司?。先世襄?祖(祖父)杜依????令,徙河南,至杜??奉天令,又居京兆杜陵。
杜甫 (とほ )
(712‐770)中国,盛唐の詩人。字は子美。先祖は長安南郊少陵の出で,杜少陵とも呼ばれる。
西晋の文人将軍杜預の3代目という。祖父杜審言(645?‐708?)は〈五言律詩〉の確立に功績を残した初唐の詩人で,
杜甫も〈吾が祖 詩は古えに冠たり〉と誇り,その影響を強く受けた。唐王朝が繁栄から衰退,統一から崩壊へ向かう
激動の時代を生きた彼は,社会の混乱や民衆の惨状をみずからの苦痛として深刻に表現した。
時代の実相を余すところなく歌った数々の作品が,詩による歴史〈詩史〉と称され,彼自身もまた人類最高の詩人〈詩聖〉と
敬われたゆえんである。
杜 預(と よ)
222年-284年)は、中国三国時代から西晋時代の政治家・武将・学者。魏・西晋に仕えた。
字は元凱。諡は成。慣用的には「どよ」とも読まれてきた。祖父は杜畿。父は杜恕。子は杜耽・杜錫。
傅玄の『傅子』によると、その遠祖は史記で“酷吏”と評された前漢の御史大夫の杜周である。
その子で父と同じ御史大夫を務めた杜延年は、父や弟と共に南陽郡の杜衍県(河南省南陽市)から
茂陵(陝西省興平市)に移住した。後に杜延年が更に杜陵(陝西省西安市)に移住したため、
子孫は代々ここに居住することとなった。唐代の詩聖杜甫は彼の子孫に当たる。
は
伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)
古代中国・殷代末期の孤竹国(現在地不明、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である。高名な隠者で、
儒教では聖人とされる。
一説には二人の姓は子、氏は墨胎、伯夷の諱は允・字は公信、叔斉の諱は智・字は公達で、夷・斉はそれぞれの諡であるとされる。
なお、伯・叔は共に長幼の序列を示す字である。
伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようと
した。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて
他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国王不在で困った国人は次男を王に立てた。
流浪の身となった二人は周の文王の良い評判を聞き、周へむかった。しかし、二人が周に到着したときにはすでに文王は亡く
なっており、息子の武王が、呂尚を軍師に立て、悪逆で知られた帝辛(殷の紂王)を滅ぼそうと軍を起こし、
殷に向かう途中だった。二人は道に飛び出し、馬を叩いて武王の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言え
ましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか!」と諌めた。周囲の兵は怒り2人を殺そうとしたが、
呂尚は「手出しをするな!正しい人たちだ」と叫び、2人を去らしめた。
戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、二人は周の粟を食べる事を恥として周の国から離れ、
首陽山に隠棲して山菜を食べていたが、最後には餓死した。死に臨んで、下の詩を残したとされる。
「采薇の歌」餓死の直前に作ったとされる。武王が紂王を放伐して天下を制したことを非難し、太古の有徳の王を懐かしんだ歌。
詩経には載っておらず、逸詩といわれる。
西山に登り 采薇をとる
暴を以て暴に易え その非を知らぬ
農・虞・夏忽焉として没す 我いずくにか適帰せん
于嗟徂かん 命の衰えたるかな
首陽山に登り 山菜をとって暮らそう
暴によって暴にかわり、その非に気づかない
神農や舜帝、禹王[1]の世は今はない。 いずこに行けばよいのか
ああ、もうおしまいだ。 天命も衰えた
史記「伯夷列伝」
伯夷、叔齊,孤竹君之二子也。父欲立叔齊,及父卒,叔齊讓伯夷。伯夷曰:「父命也。」遂逃去。叔齊亦不肯立而逃之。
國人立其中子。於是伯夷、叔齊聞西伯昌善養老,盍往歸焉。及至,西伯卒,武王載木主,號為文王,東伐紂。
伯夷、叔齊叩馬而諫曰:「父死不葬,爰及干戈,可謂孝乎?以臣?君,可謂仁乎?」左右欲兵之。太公曰:
「此義人也。」扶而去之。武王已平殷亂,天下宗周,而伯夷、叔齊恥之,義不食周粟,隱於首陽山,采薇而食之。及餓且死,
作歌。其辭曰:
「登彼西山兮,采其薇矣。以暴易暴兮,不知其非矣。神農、虞、夏忽焉沒兮,我安適歸矣?于嗟徂兮,命之衰矣!」
遂餓死於首陽山。
白居易(はくきょい)
772年(大暦7年) - 846年(会昌6年))は、中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。
772年、鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、
9歳で声律を覚えたという。
彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、
比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳で??県(ちゅうちつけん、
陝西省周至県)の尉になり、その後は翰林学士、左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を
多く制作する。
815年、武元衡暗殺をめぐり越権行為があったとされ、江州(現江西省九江市)の司馬に左遷される。
その後、中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、杭州・蘇州の刺史となり業績をあげる。
838年に刑部侍郎、836年に太子少傅となり、最後は842年に刑部尚書の官をもって71歳で致仕。74歳のとき自らの詩文集
『白氏文集』75巻を完成させ、翌846年、75歳で生涯を閉じる。
范 蠡(はんれい)
范蠡(はん れい 生没年不詳)は、中国春秋時代の越の政治家、軍人である。氏は范、諱は蠡、字は少伯。越王勾践に仕え、
勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者とされている。
范蠡がどこで生まれたのか、どのような経緯で越の允常(勾践の父)に仕えるようになったのか、
彼の経歴による明確な確証がない。
隣国の呉王闔閭は伍子胥・孫武らの補佐を受けて強勢を誇っていた。越王允常は范蠡の補佐で国力を伸ばしていた。
しかし紀元前496年に允常が逝去し、太子の勾践が父の後を継いだ。允常の訃報を聞いて喪中に服している越に対して、
闔閭は出る杭を先んじて叩いてしまおうと判断し、?李の戦いを起こして攻め込んできた。しかし、?李(現・浙江省嘉興市)で、
范蠡はこれに対して奇計を持って迎えた。その奇計と言うのは決死隊(『左伝』では罪人。こちらが正確か)を集めて敵の目の
前まで行かせてそこで自ら首をはねさせると言う物で、呉軍が仰天している隙を付いて越軍は呉軍を撃破した。
越の武将霊姑孚が射た矢で片足を破傷したのが原因で闔閭は陣没し、太子の夫差が立った。
夫差は伍子胥の補佐を受け、越への復讐(臥薪)を狙い、それを知った勾践は今のうちにと呉を叩こうと出兵しようとしたが
、范蠡はこれを諌めた。しかし勾践は聴かずに出兵し、大敗してしまった。勾践は夫差に対し平身低頭で命乞いをし、
更に家臣の中の文種は夫差の側近伯?(?は喜否)に賄賂を贈って夫差に勾践を助けるように吹き込んだ。
この時に伍子胥は勾践を殺す事を強弁したが、夫差はこれを取り上げず、勾践を解放し夫差の馬役人にさせた(嘗胆)。
国に戻った勾践は国政を范蠡に任せようとするが、范蠡は「軍事なら種(文種)は臣に及びませんが、
政治にかけては臣は種に及びません」と応え、文種を推薦した。勾践は范蠡・文種の補佐を受け、復讐を狙っていたが、
表面的には夫差に対し従順な姿勢を見せて、夫差を油断させた。更に范蠡は伯?に賄賂を送り、
伍子胥の悪口を夫差に吹き込ませて離間を狙った。思惑通り、伍子胥は夫差に誅殺され、夫差を止める者はいなくなった。
夫差は調子に乗って北へ出兵して天下の事を争おうとし、越の事など気に止めなくなった。
夫差は呉軍の大半を率いて北の会盟に出かけて、国許を守るのは太子・友とごく僅かの兵になった。
勾践はその隙を衝こうとして、范蠡に訊ねた。范蠡は 「よいでしょう」 とこたえた。そこで越は大軍を発し、
一気に呉を襲い、太子を殺して呉を占領した。夫差は慌てて引き返してきた。勾践は、
「まだ呉の全土を占領するには力が不足している」と判断し、一旦和睦した。
その後も夫差は無理に北へ出兵して国力を消耗した。四年後、越は呉に決戦を挑み、遂に夫差を姑蘇山に追い詰めた。
夫差は降伏して命乞いしたが、范蠡は後顧の憂いを断つべく殺すよう進言した。勾践は殺すことはためらい、
舟山群島に島流しにしようとしたが、その命令を受けた夫差は自殺した。
悲願が達成されて有頂天になる勾践を見て、范蠡は密かに越を脱出した。范蠡は文種への手紙の中で
「私は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、
飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と聞いています[1]。
越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、
歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と述べた。
そこで文種は災いを避けるため病と称して出仕しなくなったが、文種に謀反の疑いありと讒言する者が現われた。
勾践は文種に剣を贈り、「先生は私に呉を倒す7つの秘策があると教えて下さいました。
私はそのうちの3つを使って呉を滅ぼしました。残り4つは先生のところにあります。私のために先生は亡くなった
父王のもとでその秘策をお試し下さい」と伝え、文種は自殺した。
范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。
思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。
越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。
范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を
全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(山東省陶県)に移り、
陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを
送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。
このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。
浙江省諸曁市内に陶朱山がある。
ふ
伏義(ふくぎ)
紀元前3350年~紀元前3040年)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。?羲・包犠・庖犠・伏戯などとも書かれる。
伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は鳳(?)姓。兄妹または夫婦と目される女媧と同様に
、蛇身人首の姿で描かれる。伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる。また、現在の中国では、
中華民族人民の始祖として崇拝されている。
『易経』繋辞下伝に天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代え、蜘蛛の巣に倣って鳥網や魚網を発明し、
また魚釣りを教えたとされる。漢字が黄帝の史官蒼頡によって開発される以前の文字に関する重要な発明とされる。
また漢代に班固が編纂した「白虎通義」によると、家畜飼育・調理法・漁撈法・狩り・鉄製を含む武器の製造を開発し、
婚姻の制度を定めたとある。
中国古典論者の聞一多が雲南省を中心に説話を採集した。それによると、伏羲と女媧の父がかつて自身が閉じ込め、
自分の子供たちによって解放された雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こして攻めたために二人を残して人類が滅亡してしまう。
兄妹は雷公を助けた時に彼からもらった種を植えて、そこから生った巨大な瓢箪の中に避難して助かり、
結婚して人類を伝えたとある。聞一多は、伏羲が時に庖羲とも書かれる点に注目し、伏羲とは方舟を指しており、
女媧がこれに乗って洪水の難を逃れたのではと推論している。
伏羲は女媧と同じく中国少数民族の苗族が信奉した神と推測されており、洪水神話は天災によって氏族の数が極端に減少して
しまった出来事が神話に反映したと言われている。
武元衡(ぶ げんこう)
(758年 - 815年)は、中国・唐の詩人。河南?氏(こうし、河南省偃師の南)の出身。字は伯蒼。
徳宗の建中4年(783年)の進士。徳宗に才能を認められ、比部員外郎・右司郎中・御史中丞を歴任。
順宗朝では権臣・王叔文に従わなかった為、降職されたが、憲宗の元和2年(807年)には門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)
に至った。同年、宰相のまま剣南西河節度使に任ぜられて蜀に赴き、7年間、蜀に滞在した。
淮西節度使(河南省汝南)・呉元済が反乱を起こした時、憲宗から全てを委任されて討伐を画策したが、
呉元済派の朝臣の放った刺客に暗殺された。
『武元衡集』三巻がある。作品に、『嘉陵駅(かりょうえき)』(七言絶句)がある。
文 王(周)(ぶんのう)
文王(ぶんのう、ぶんおう、紀元前1152年 - 紀元前1056年)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。
父は季歴、母は太任(中国語版)であり、?仲および?叔が兄である。周の創始者である武王の父にあたる。
「寧王」とも呼ばれる[1]。
文王は商(殷)に仕えて、三公(特に重要な三人の諸侯)の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、
岐山のふもとより本拠地を?河(渭河の支流である。湖南省の?水とは字が異なる)の西岸の豊邑(正しくは豐邑。後の長安の近く)
に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。
この時の商王は帝辛 (紂王) であった。ある時に昌と同じく三公の一人、九侯と鄂侯が残酷な殺され方をした事で思わず
ため息をついたが、これを辛のやり方に不満があると崇侯虎(英語版)に讒言された昌は?里(中国語版)(ゆうり)
に幽閉された。同時に人質となっていた長男の伯邑考が、辛に煮殺されて、その肉を刻まれてその汁を賜り、
昌はそれを飲食したと伝わる[2]。
昌は幽閉された時期に、周易を書いた。その後、昌は財宝と領地を辛に献上して釈放され、西伯(西の統括をする諸侯の事)
に任じられた[3]。
国許に帰った昌は辛に目を付けられないようにしながら仁政を行った。ある時に虞と?という小国が互いの間の紛争の調停を
頼むために周にやってきたが、周の人民はあぜを譲り合い、老人を敬する気風があったので、
自分たちが些細な事で争っている事に二つの国の君主は恥じてしまい、昌に面会せずに国許に帰った。
その後、領土を広げ、また呂尚を軍師に迎え、北方遊牧民族の犬戎・密須(中国語版)や諸侯国の?(中国語版)を征伐した。
晩年には政敵の崇侯虎を討伐して、その領土の豊(現在の陝西省西安市近郊)を併呑した。
辛の無道に見切りを付けた諸侯は昌を頼るようになったが、昌は最後まで商の臣下としてあり続けた。
昌の死後、次子の武王が文王の積み上げた物を基盤として商を倒し、周王朝を立てた。武王は昌に対し文王と追号した。
後世、特に儒家からは武王と並んで聖王として崇められ、為政者の手本となった。
ほ
房 琯(ぼうかん)
(696年-763年)字は次律,河南の人。則天の時の平章事,融の子にして門蔭を以て弘文生に補せらる。
開元中,明皇,将に岱岳に封ぜんとするや,?,封禅書を撰し,以て献ず。張説,其の才を奇とし,秘書省校書郎を授く。
又た応に県令に任ずるに堪ふべく,挙げられて盧氏の令と為る。尋ついで監察御史を拝す。天宝初め,主客員外に遷り,
憲部侍郎に累かさぬ。明皇,蜀に幸す。?,独り馳せて行在に赴く。上,大に悦ぶ。即日,文部尚書同平章事を拝す。
左相韋見素等と霊武を冊して奉じ,因て時事を陳ぶ。言詞慷慨,粛宗,之れが為に容を改む。持節充招討節度等使に詔す。
後,賀蘭進明の搆ふ所により相を罷め,尋いで?ヒン州刺史に貶めらる。詩,一首。
鮑叔(ほうしゅく)
中国春秋時代の斉の政治家。姓は?、氏は封地から鮑、諱は牙、字は叔。鮑叔牙とも。桓公に仕えた。
鮑叔の祖先は?姓の国杞の公子で、斉に仕えて鮑の地を与えられた事から、鮑氏を名乗るようになる。
鮑叔は若い頃に管仲と親しく交わっていた。彼は管仲と共に商売を行っていたが、管仲が大損失を出しても商売には
時勢があるとして決して咎めず、また、多大な利益を上げても、貧乏な管仲の為にその利益のほとんどを与えていた。
鮑叔のこの厚情に管仲は「私を生んだのは父母だが、私を知る者は鮑叔である」と大恩を感じていた。
この事から後世の人は二人の厚い友情を管鮑の交わりと呼んで大いに称えた。 この後鮑叔は、
釐公の子の公子小白に仕えるようになるが、小白の兄の襄公の圧迫を避ける為に、小白と共に?に亡命した。
その後、襄公が暗殺されると、斉では後継者争いが起こり、?から戻ってきた小白と公子糾が争ったが、
鮑叔の活躍により小白が勝利し斉君となった。
公子糾に味方をした魯から公子糾の臣、管仲と召忽を受け取り桓公に仕えさせようとした。
召忽は公子糾が死んだ事を知り自害するが管仲を仕えさせる事に成功する。
桓公は管仲を宰相として覇者となったが、鮑叔は管仲をよく助けてともに政治にあたった。
史記には、人々は桓公を覇者に押し上げた管仲よりも、管仲の力量を見抜き信頼し続けた鮑叔を称えた、とある。
鮑 照(ほうしょう)
鮑照(ほう しょう、414年?(義熙10年) - 466年(泰始2年))は、中国南北朝時代、宋の詩人。
字は明遠。本籍地はもと上党郡(現在の山西省長治市)、後に東海郡(現在の江蘇省漣水県、または山東省?城県)に移る。
最後の官職である「前軍参軍」にちなみ、後世「鮑参軍」と呼ばれる。宋の文帝の元嘉年間を代表する詩人として、
同時期に活躍した謝霊運・顔延之と併称して「元嘉三大家」の1人に数えられる。妹の鮑令暉も詩人として知られる。
寒門の貧しい家柄に生まれる。元嘉年間に臨川王劉義慶に認められ国侍郎・太学博士・中書舎人となる。
後に荊州刺史・臨海王劉子?のもとで前軍参軍となった。466年、劉子?が反乱を起こして敗死すると、
鮑照もその混乱の中で殺害された。
現存する詩は241首と六朝時代の詩人としては比較的多く残っている。楽府詩を得意とし、それに仮託して寒門出身ゆえの
人生の不遇や艱難を詠う内容が多い。典故にもとづいた旧来の表現に拘泥せず、好んで新奇な語を用い、
風景や自らの感慨を力強くダイナミックな調子で詠う作風が特徴である。
そうした作風は、同時代において通俗的で典雅さに欠けると批判されることもあったが、
後世の唐代の詩人に大きな影響を与えた。唐の詩人杜甫は、李白の詩才を「清新なるは 廋開府、俊逸なるは 鮑参軍」
(「春日 李白を憶ふ」)と鮑照になぞらえて称えている。
穆王(ぼくおう)
周朝の第5代王。在位期間 前985年? - 前940年
昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、
その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。
彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。すなわち、土を踏まないほど速い「絶地」、
鳥を追い越す「翻羽」、一夜で5,000km走る「奔霄」、自分の影を追い越す「越影」、光よりも速い「踰輝」と「超光」、
雲に乗って走る「謄霧」、翼のある「挟翼」の8頭である。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。
また、司寇(司法官の長)である呂侯に命じて『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、
その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。
また彼は西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。
このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である。
も
孟 浩然(もうこうねん)
(689年 - 740年)は中国唐代(盛唐)の代表的な詩人。
襄州襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身。
字も浩然。一説には、名は浩だとも言われる。
「春暁」作者
全唐詩「孟浩然」
毛沢東(もうたくとう)
1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。
筆名は子任。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、
1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。
日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。
以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。
現代世界史において大きな業績を遺した人物とみなされており[3]、
タイム誌の「20世紀の重要人物[4]」の1人に名を連ねている[5]。毛は、思想家、戦略家として評価されており、
詩人としても名高い[6]。
一方、毛の政策については現在でも議論の対象となっている。研究者は、毛の引き起こした大躍進政策と文化大革命のような、
文化、社会、経済、外交に重大な損害をもたらした問題について非難するとともに、
彼の政策による犠牲者を数千万と推定する[7]。そして、マルクス主義・ソ連型社会主義を中国社会に導入しようとした
毛の政策は、産業の面において、結局失敗に終わったと論じる[7]。
1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。
同年12月7日、朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。
5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、
コミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築。
翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。
中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、
毛沢東は改めてその主席に就任した。
も
孟 遲(もう ち)
唐(約公元八五九年前後在世)字遲之,(全唐詩云:一作升之;文獻通考作孟達。字叔之)平昌人。生卒年均不詳,
約唐宣宗大中末前後在世。有詩名,尤工?句。與顧非熊甚相得,於會昌五年(公元八四五年)同舉進士第。亦與杜牧友善,
遲至池州,牧作詩送之。遲著有詩集一卷,《新唐書藝文志》傳於世。。
ゆ
廋 信(ゆしん)
(513年(天監12年) - 581年(開皇元年))、中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。廋肩吾の子。
南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍した。
侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江南賦」をはじめ、
江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。
(西元513ー581)字子山,小字蘭成,南朝梁新野人。梁元帝即位,任為右衛將軍,後元帝使出使西魏,?西魏滅梁,
信留長安,並任官;北周代魏,信累遷驃騎大將軍、開府儀同三司,在北朝達二十七年,世稱「廋開府」。廋信前期作品,
文藻?麗,與徐陵齊名,時稱「徐?體」;後期作品,常有?關之思,風格一變為?鬱,語言清新。著有《廋開府集》。
よ
楊貴妃(ようきひ)
719年(開元7年) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日))は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。
貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、
傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。壁画等の類推から、
当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。
楊 国忠(よう こくちゅう)
? - 756年7月15日、唐代玄宗朝の権臣。名は釗(しょう)。楊貴妃と曾祖父(別の説では祖父)が同じで又従兄に当たる。
なお、武則天時代に佞臣と言われた張易之の姉妹の子とも言われる。
楊国忠はばくちを得意とすることから、玄宗にまみえ、金吾兵曹参軍に任命された。経理、計算などを間違ったことはなく、
玄宗は「好度支郎(すぐれた出納官)」として監察御史に任命した。その後は宰相の李林甫、御史中丞・王鉷と結託して、
ともに楊慎矜を謀殺し、李林甫の手先として旧来の貴族や太子の李亨に関係するものを排撃した。
?国夫人を使って玄宗の機嫌をよく探知し、調子をうまく合わせたために有能と判断され、度支員外郎に任命され、
15以上の使職(唐代の財政などを扱う役職)を兼ねた。だが、この頃から李林甫との対立が始まったという。
天宝7載(748年)には、給事中・御史中丞に任命され、天宝8載(749年)には、財政が豊かとなり、
官倉が穀物や絹であふれんばかりであったことを上奏し、玄宗に賞される。
余った穀物を貨幣に変え、長安に送る税を布や絹にするように提案していた。天宝9載(750年)、
李林甫の腹心であった吉温が付き、李林甫の専権を牽制し、玄宗より「国忠」の名を下賜された。
天宝10載(751年)、彼が推薦し、剣南節度使となっていた鮮于仲通が南詔に大敗し、8万のうち6万の兵を失った。
楊国忠は敗北を隠し、さらに討伐軍を起こした。鮮于仲通に上奏させ、楊国忠自身で剣南節度使を兼ねた。
南詔も吐蕃に臣従し対抗した。天宝11載(752年)、政敵となった王鉷を陳希烈とともに謀反の罪で自殺に追い込む。
御史大夫に昇進し、陳希烈、哥舒翰とともに、李林甫に対する弾劾を始める。
李林甫は、楊国忠を南詔討伐のために赴かせようとしたが、病死し、楊国忠は中書令・文部尚書となった。
唐の政権を握り、四十を超える使職を兼ね、自分につかない官僚は地方に出し、年功序列で出世させることで衆望を得て、
人事を全て自分で決めた。天宝12載(753年)には、死去した李林甫を謀反の罪で誣告し、
李林甫の親類や党を組んだものは流罪となった。その後、自らの権力集中に努め、天下の特に優れた才能を集めた。
この頃から安禄山との対立を強め、哥舒翰と手を組み、叛意ありとして排撃を強めはじめた。
天宝13載(754年は、安禄山は楊国忠の意に反して上京し、玄宗に釈明をし、玄宗は安禄山を宰相に任命しようとしたが
楊国忠の反対により沙汰止みとなった。さらに、吉温が安禄山につき、対立は深まり、安禄山は長安を脱出するように范楊へと
帰った。
剣南留後・李?が南詔に大敗し、瘴癘(しょうれい)の地あったことも加わって、全滅し、李?も捕らえられた。
楊国忠は敗北を隠し、さらに討伐軍を出し、死者は鮮于仲通の時と合わせて、20万人近くに及んだ。
天宝14載(755年)楊国忠は、吉温を合蒲に流すなど、敵対行動を止めなかった。安禄山は楊国忠に対して不満と敵意を抱き、
ついに、謀反の意志を固め、安史の乱が勃発し、安禄山は楊国忠の排除を名目に武装蜂起した。
楊国忠は得意げに、「安禄山の首は十日以内に届けられるでしょう」と語ったという。
しかし、洛陽が陥落し、討伐軍の指揮官である高仙芝と封常清は潼関まで退却したために処刑され、
哥舒翰が潼関の唐軍を指揮することとなった。
至徳元載(756年)、哥舒翰は、戸部尚書で安禄山のいとこでもある安思順と楊国忠の腹心・杜乾運を謀殺した。
また、謀反の責任は楊国忠にあるという世論の高まりもあり、両者は対立し、楊国忠は玄宗をたきつけ哥舒翰に出撃を強いた。
哥舒翰は安禄山の軍に大敗し捕らえられ、潼関は陥落した。
楊国忠は剣南節度使を兼ねていたため、蜀地方への出奔を提言。この時、「安禄山の謀反の兆しを陛下が信じなかったからであり、
宰相の責任ではない」と広言したと言われる。玄宗も同意し、太子・李亨、楊貴妃、楊一族、宦官の李輔国、高力士、
韋見素、魏方進、陳玄礼らを連れ、密かに西方へと出発した。
馬嵬(ばかい)駅(陝西省興平市)に着いたところで、将士の疲労と飢餓は極限に達して前進を拒否。
楊国忠への誅殺を決意した、龍武大将軍の陳玄礼は、李輔国を通して太子・李亨に決断をうながしたが、まだ、下らなかった。
しかし、陳玄礼は「今天下崩離,萬乘震盪,豈不為楊國忠割??庶、朝野怨尤,以至此耶? 若不誅之以謝天下,何以塞四海之怨憤!」
(今日、天下は崩れ落ち、天子の地位は揺らいでいる。楊国忠のために亡民は苦しみ、朝野に怨嗟が渦巻いているのではないか。もしこれを誅せずに天下に謝すれば、どのように四海の恨みと憤りを抑えられようか!)と述べた。たまたま、楊国忠が吐蕃の使者と会話していたため、兵士が「楊国忠が蛮人と謀反を起こそうとしているぞ!」と叫び、襲いかかり、西門内に逃げ入った楊国忠は、殺され、首は槍先に刺された。
御史大夫の魏方進は「なぜ、宰相を殺したのだ」と兵士をとがめたために殺され、楊国忠の子・楊暄、韓国夫人
(?国夫人・楊貴妃の姉)も殺された。さらに兵士らは玄宗に迫って、楊貴妃の処刑も要求し、高力士の説得により、
玄宗は泣く泣く楊貴妃を縊死させたという。楊国忠の残りの子も全て、前後して殺されている。
吉川幸次郎(よしかわこうじろう)
1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本の中国文学者、芸術院会員、文化功労者。
兵庫県神戸市の貿易商の次男に生まれる[1]。中宮小学校を経て諏訪山小学校を卒業した。1916年(大正6年)に神戸第一中学校
(現在の兵庫県立神戸高等学校)[2]入学後は、「史記」「水滸伝」「西遊記」「三国志」などの訳書に親しんだ。
1920年(大正9年)、第三高等学校文科甲類へ進み、雑誌『支那学』の同人だった青木正児の知遇を得、また現代中国語を学び、
1923年(同12年)、大学進学の休みに中国江南を旅した。中国へ傾いたのには、芥川龍之介や佐藤春夫の影響もあった。
大学は京都帝国大学文学部文学科、狩野直喜・鈴木虎雄に考証学・中国語学・古典中国文学を学んだ。
1926年(大正15年)卒業論文『倚声通論』を漢文で書き、大学院に進み唐詩を研究した。
1928年(昭和3年)から1931年(同6年)まで、先輩格の倉石武四郎と北京に留学し、帰国後東方文化学院京都研究所
(後の東方文化研究所、現在の京都大学人文科学研究所)所員となり、京大文学部の講師を兼ねた。
この頃『中国』に徹するため、倉石とともに、当時のシナ服で暮らし中国語で会話し中国語で論文を書いた。
孔子を尊敬し、儒者として処世した。字(あざな)として『善之』を生涯用いた。1932年(昭和7年)中村ノブと結婚し
左京区に終生在住した。愛煙家で酒徒でもあった。
1935年(昭和10年)から1941年まで倉石・小川環樹らと、孔穎達著『尚書正義』(尚書の注釈書)
の定本を作るための会読を続け、1939年から1945年にかけて東方文化研究所から発行された『尚書正義定本』や、
1940年から1948年にかけて岩波書店より発行された『尚書正義』の日本語訳などに実った。1939年から1947年まで、
最初は青木正児が指導して『元曲辞典』編纂のため、明の臧懋循(そうぼじゅん)の『元曲選』を会読し、その成果の一部は、
1951年・1976年・1977年に京大人文科学研究所より発行された『元曲選釈』に実った。この頃から、日本語の論文を発表し、
一般向けの啓蒙書も出版していった。
1947年『元雑劇研究』により文学博士号を得、同年京都大学に移って文学部教授となった。先任に倉石武四郎がいた。
1949年母校旧制神戸一中の後身、兵庫県立神戸高等学校の校歌『わこうどは まなびやをたかきにぞおけ』を作詞。
初の日本語の詩であった[3]。
1951年日本学術会議会員になった(1963年まで)。NHKラジオの文化講座で、『中国の文学』を講義した。
1952年国語審議会委員に就いた(1956年まで)。
サンフランシスコ平和条約締結後の1954年国務省に招かれ、アメリカに遊んだ。
1956年-1958年は、京都大学文学部長。1958年NHK番組の教養大学で、『中国文学入門 - 詩を中心として』を講義。
1959年日本中国学会理事長(1963年まで)。1960年モスクワの『国際東洋学者会議』に参加し、ヨーロッパを回った。
1962年コロンビア大学の客員教授として約4ヶ月ニューヨークに滞在した。
1964年日本芸術院会員、1966年東方学会理事長(1975年からは没時まで会長)。1966年NHKラジオで『論語』を講義した[4]。
1967年『杜甫の詩論と詩』を最終講義として京大を停年退官、名誉教授。杜甫に取り組み、
杜詩を読む『読杜会』と学生相手の『小読杜会』とを始めた(ともに1979年まで)。前者には足利惇氏、
大山定一、野間光辰らが集った。
1968年から1970年に、『吉川幸次郎全集』を自ら編み刊行。1969年文化功労者、フランス学士院から
スラニスラス・ジュリアン(Stanislas Julien)賞を贈られ、1970年NHK放送文化賞。1971年朝日賞。
この頃から江戸期の儒学者、伊藤仁斎、伊藤東涯、荻生徂徠、新井白石らの研究著述も進めていった。
特に本居宣長は、「漢文は中国の発音で読み下すべき」とする信条の先覚として、戦前から私淑していた。
1974年勲二等旭日重光章。1975年外務省の学術文化訪中使節団団長として40年ぶりに訪中。
1977年より杜甫全詩の訳注を目指し、『杜甫詩注』を刊行開始。翌年NHK教育テレビで『杜甫詩抄』を26回講義した。
1979年に、再度中国文学研究者訪華団団長として3週間中国を巡った。その4ヶ月余り後に、胃を一部切除の手術。
1980年2月に『杜甫私記』を刊行、4月8日、癌性腹膜炎により没す。法名「文徳院釈幸善」。
大谷本廟での葬儀・同墓地に埋葬された。没後従三位・勲一等瑞宝章が授与。コロンビア大学でも追悼会を催した。
弟子たちには、竹之内静雄[5]、黒川洋一、竹内実、清水茂、入谷仙介、高橋和巳、一海知義、筧久美子、筧文生
、興膳宏[6]、村上哲見、井波律子ら多数がいる。実子吉川忠夫は、中世中国史(魏晋南北朝・六朝期)学者で、
東方学会会長を務めた(第10代、2009年秋から2011年秋まで)。
蔵書の一部は、生まれ故郷の神戸市立中央図書館に寄贈され「吉川文庫」として所蔵されている[7]。
り
李 亀年(り きねん)
唐代玄宗朝の音楽家。玄宗の朝廷において宮廷音楽の代表的な楽人となった。安史の乱において、地方に流浪した。他の同時代の楽人とともに、
「隋唐演義」や「長生殿」などのこの時代を舞台にした文芸作品に度々、登場している。
開元年間、長安において、弟の李彭年、李鶴年とともに音楽の才学によって盛名があった。音律に通暁し、馬仙期、賀懐智と並び称され、
歌界に第一の名声があった。「渭川」という曲を作曲したことにより、玄宗から特別の恩寵を受けた。洛陽に大きな邸宅を持ち、
その奢侈なること王公大臣さえも超え、邸宅の規模は、長安の貴顕にも匹敵していた。洛陽からはるばる長安まで通って、宮中に勤務したと伝わる。
彼がいた梨園の楽曲はあたかも仙境のもののようであったと伝えられる。この頃、岐王・李範や殿中監・崔滌(崔九)の邸宅に赴き、
若い頃の杜甫に会っている。
玄宗が「紫雲廻」と「凌波曲」を作曲した時に演奏会を、玄宗、楊貴妃、寧王・李憲、馬仙期、張野狐、賀懐智とともに行い、この時、
李亀年は篳篥を担当している。
当時、宮廷となっていた興慶宮の沈香亭に牡丹が移植され、花を咲かせた時に、玄宗と楊貴妃の前で、李白の「清平調」を歌詞にした歌を披露している。
この時、玄宗が玉笛で曲にあわせ、楊貴妃は葡萄酒を飲みながら、聞き入り、その歌は当代比類無いものであったと伝えられる。
天宝年間に梨園が設置された時、都における著名な楽士であったため、馬仙期、賀懐智とともに、梨園で職を任せられている。また、
李亀年は羯鼓の達人であり、玄宗に鼓を打つ杖(桴)を何本折ったと問われた時、「50本は折りました」と答えている。玄宗はこの時、
「まだまだ、修行が足りない。自分は3箱分、すでに折っている」と語ったと伝えられる。
安史の乱の後、長安から江南地方に流落し、人から乞われて歌を歌うことで生計を立てていた。この歌を聴いて、酒を飲むのを止め、
面を覆って泣かないものはいなかったと伝えられる。潭州で、杜甫と再会し、杜甫は「江南逢李亀年」という詩を作成している。
李 璡(りしん)
李璡は讓皇帝李憲の長子。汝陽郡の王に封ぜられる。太僕卿に至り釀王と号した。
弓と鞨鼓に優れて叔父の玄宗はなはだしくこれを愛したと伝える。性謹直であったが無類の酒好きで、
毎朝出仕の前に三斗の酒をあおり、途上、麹車に出会えば涎を流し、いっそ酒泉の王に封ぜられたかったと言ったと歌う。
李世民
太宗。
李適之(りせきし)
李適之。一名昌。恆山王、承乾の孫。開元中。累官、通州刺史たり。擢んでて秦州都督たり。轉じて陜州刺史。入りて河南尹と爲る。御史大夫を拝す。
刑部尚書を歴る。天寶元年。牛先客に代り、左相と爲る。李林甫、之れと搆う。政事を知るを罷め。守太子少保たり。尋いで宜春太守に貶せらる。詩二首あり。
左丞相の地位にあった。毎日、一万銭を費やし、大鯨が百の川の水を吸い込むがごとき飲みっぷりであって、
清酒は飲むが濁酒は飲まない言うと歌う。
李 白(りはく)
(701年(長安元年) - 762年10月22日(宝応元年9月30日))は、中国の盛唐の時代の詩人である。字は太白(たいはく)。
号は青蓮居士[1]。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。
奔放で変幻自在な詩風から、後世『詩仙』と称される。
劉禹錫(りゅううしゃく)
(772年 - 842年)は中国の唐代(中唐)期の詩人、政治家。字は夢得(ぼうとく)。
自身は中山(河北省定州市)出身と称したが、彭城(江蘇省徐州市)出身とも伝えられる。詩豪と呼ばれた。
代々儒学者として名があった家に生まれた。793年(貞元9年)進士に及第した。淮南節度使であった杜佑の配下で書記を務めた。
その後、中央政界で同じ年に進士となった柳宗元とともに王叔文の党派に連なり、
徳宗末期の貞元年間から順宗期を経て政治改革を推進した(永貞の革新)。
なかでも劉禹錫は財政面を担当し、王叔文・王?・柳宗元らとともに「二王劉柳」と並称されるほど重要な役割を果たした。
急激な改革だったため彼らは武元衡のような政敵を多くつくってしまう。
宦官の圧力のために在位8ヶ月にして順宗が退位させられ憲宗が即位すると武元衡ら守旧派が力を盛り返し、
王叔文は失脚、劉禹錫も連州(広東省連州市)刺史に左遷を命じられ、その途次で朗州(湖南省常徳市)司馬に降格となった。
このとき他の主立った同志も同じように各地の司馬に左遷された(八司馬事件)。
朗州での約9年間、劉禹錫は文学に没頭するようになり、古来楚であった当地の風俗に取材した詩をつくったり、
民衆のために祭祀用の歌詞をつくった。
815年(元和10年)、ようやく都長安に召還されたが、玄都観(道教の施設)で詠んだ詩が政府の主流派を揶揄する内容
だったためその怒りにふれ、連州刺史に逆戻りとなった。
それから数ヶ所の刺史を経たあと、828年(大和2年)に長安に戻り主客郎中を拝命した。
そこで劉禹錫はまたも玄都観で、前回の続編となる詩を詠んだ。
このときは宰相裴度のおかげでどうにか左遷を免れていたが、その裴度が引退すると洛陽にやられた後、
832年(大和6年)蘇州刺史にされた。このように劉禹錫は、狭量な性格ゆえにその地位が安定しなかった。
その後も太子賓客となったり刺史となったりを繰り返した。
晩年は白居易と親交が深まり、元?亡き後も詩を唱和し、その神妙さを讃えられた。
最終的には検校礼部尚書・太子賓客で生涯を終えた。
李膺(り よう)
( - 169年)は、中国の後漢時代の官僚。字は元礼。潁川郡襄城県(河南省襄城県)の人。
祖父の李脩(り しゅう)は、安帝の治世、太尉。父の李益(り えき)は趙国の相であった。子は李?。
生まれつき礼法にこだわらず、亢然としていて人と交際しなかったという。ただ同郡の荀淑、陳寔らを師友とした。
劉 禅(りゅう ぜん)
三国時代の蜀漢の第2代皇帝。魏に降伏したため、皇帝としての諡は本来無いが、漢の後継を称する劉淵によって諡を贈られた。
223年、父帝の死に伴い17歳で皇帝に即位した。以降は諸葛亮らに政務を任せて国を守った。
234年に諸葛亮が死去した際には、劉禅は白い喪服を着て3日間哀悼の意を表している 。
劉長卿(りゅう ちょうけい)
(生没年不詳)中国・唐代中期の詩人。字は文房。
河間(河北省)の出身。玄宗皇帝の天宝年間(742年 - 756年)の前後に生存したと思われる。733年に進士となる。
756年に監察御史となり、ついで転運使判官になった。この後、讒言する者があり姑蘇の獄につながれたが、許されて睦州
(浙江省)の司馬として左遷され、随州(河北省)の刺史で終わった。性剛直で権勢家に逆らうことが多かったという。
詩文に長じ、権徳輿に「五言の長城」と称せられた。龍門八詠は古詩の傑作とされ、『唐詩選』には平蕃曲などを収める。
劉長卿集10巻がある。
劉 備(りゅう び)
(延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、
後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。
明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する 。
劉邦(りゅう ほう)
前漢の初代皇帝。沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、
反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。
その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。
正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。
劉 封(りゅう ほう)
(? - 220年)は、中国後漢末期の武将。字は不明。父は寇氏。母は不明。劉備の養子。副軍将軍。荊州長沙郡羅県の人。
『三国志』蜀志劉封伝によると、元々は長沙郡の1県である羅侯の寇氏の子で、長沙の劉氏の甥であった。
劉備に実子劉禅が生まれる207年以前、当時荊州に滞在し、未だ世継ぎの無かった劉備から養子に迎えられた。
212年、劉備が益州攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、
諸葛亮・張飛・趙雲らに従って共にこの戦いに参加。行く先々で武功を挙げて、益州平定後、副軍中郎将に任じられた。
建安24年(219年)、劉備は孟達に房陵攻撃を命じ、孟達は西進し上庸太守の申耽を攻撃した。
劉封は孟達1人では心許ないと思った劉備に命じられ、その援軍として漢中を発して上庸に進軍。申耽を降伏させた。
この功によって、劉封は副軍将軍に昇進した。
同年に樊城で曹仁を包囲した関羽から何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、
これを拒否した。その結果、曹仁に援軍を要請された曹操が派遣した徐晃と趙儼と、
孫権が派遣した呂蒙の挟撃を受けて関羽は大敗し、後に潘璋配下の馬忠に捕らわれて処刑された。
劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。また、劉封は孟達とも対立しており、後に彼の軍楽隊を接収した。
220年7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は魏に出奔。
魏は孟達を建武将軍・新城太守に任じ、徐晃・夏侯尚と共に劉封を攻めさせた。
その際、孟達は劉封に魏へ付くよう手紙を送ったが劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の申儀などが反乱を起こし、
劉封を襲ったため上庸は陥落し、成都への敗走を余儀なくされた。
劉備は関羽の援軍を拒んだ事と、上庸を失った事などを激しく咎めた。
諸葛亮は劉封の剛勇さは次代の劉禅では制御し難くなるという理由から、劉封を除くように進言した。
かくして劉封は死を賜る事になった。自決の際、劉封は「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」と嘆いた。
これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。
子の劉林は誅殺されず牙門将に任命され、蜀漢滅亡後の264年、河東郡に移住した。
『三国志』の撰者陳寿の評では、「先主(劉備)に嫌疑をかけられる立場に追い詰められているにも拘らず、
その対策を全く立てようとしなかった。その身の破滅は当然である」と大変手厳しいものとなっている。
梁鴻(りょうこう )
梁鴻字伯鸞,扶風平陵人也。父讓,王莽時為城門校尉,封脩遠伯,使奉少昊後,寓於北地而卒。
鴻時尚幼,以遭亂世,因卷席而葬。
勢家慕其高節,多欲女之,鴻並絶不娶。同縣孟氏有女,状肥醜而黑,力舉石臼,擇對不嫁,至年三十。父母問其故。
女曰:「欲得賢如梁伯鸞者。」鴻聞而娉之。女求作布衣、麻履,織作筐緝績之具。及嫁,始以裝飾入門。七日而鴻不荅。
妻乃跪床下請曰:「竊聞夫子高義,簡斥數婦,妾亦偃蹇數夫矣。今而見擇,敢不請罪。」
鴻曰:「吾欲裘褐之人,可與倶隱深山者爾。今乃衣綺縞,傅粉墨,豈鴻所願哉?」妻曰:「以觀夫子之志耳。
妾自有隱居之服。」乃更為椎髻,著布衣,操作而前。鴻大喜曰:「此真梁鴻妻也。能奉我矣!」字之曰德曜,孟光。
《後漢書》《逸民列傳》
梁 武帝(りょうのぶてい)
南朝梁の初代皇帝。名は蕭衍。字は叔達。南蘭陵の人。
斉王室の一族であるが、伝統的な貴族社会の中では、それほど高い家格ではなかった。
しかし、蕭衍個人としては、若い頃から竟陵王蕭子良のサロンに集まる「八友」の一人であり、優れた文化人であった。
即位した武帝は、当時、あらゆる面で破綻が生じていた貴族主義社会の立て直しを図ろうとする。
まずは、国立大学を作って、試験により一般からも人材を求め、有能な実務官僚を盛んに登用した。
また、魏晋以来の九品官制は、同一官品であっても、清官と濁官といった思想により、
官制における上下と通念上の官位の上下との矛盾が大きくなっていたため、思いきって手を加えて、
通念上の官位の上下が出来る限り官制の上に反映されるよう改良した。
これらは一面では、貴族らしい貴族主義の再編と取ることも出来る。
加えて、貨幣経済の進展する中で銅銭が不足がちになったため、鉄銭を鋳造して流通させる独特な経済政策を取った。
最も、この政策はしばらくすると、私鋳銭の増加により、物価騰貴を引き起こした。
ともかく、こうした一連の政策は「天監の改革」と呼ばれ、この時期は南朝史上最大の繁栄を迎えることになる。
武帝の政治的手腕が優れていた一方で、熱心な仏教信者であった彼は、何度も俗世を捨てて仏門に入り、
「三宝の奴」と称するといった行動を取るようになる。しかも、彼の身を買い戻すためと、
大規模な寺院の造営に費やす金銭が、徐々に梁の国庫を圧迫し始めた。
結局、東魏から離反した侯景を受け入れたことで、破局が訪れることになる。東魏と梁の関係修復で窮地に追い込まれた侯景が、
首都建康を攻撃、敗北した武帝は幽閉され、衰弱死してしまうのであった。
「玉臺新詠」卷九では梁武帝の作品は七首あり、
そのうち『江南弄』『龍笛曲』『 採菱曲』『朝雲曲』遊女曲』の五首は同一の形式。
李 林甫(り りんぽ)
? - 天宝11載(752年))、唐代玄宗朝の政治家であり、唐朝の宗室。貴族派の代表として、張九齢など科挙出身者の派閥との
権力抗争に勝ち、その後も他の政治家たちを謀略の末に追い落とし、19年も宰相の地位にあった。
しかし、楊貴妃のいとこである外戚の楊国忠に権力争いに苦戦し、死後に庶民の地位に落とされた。
安史の乱の遠因をつくるなど、唐王朝を衰退に向かわせたとされる。
李淵(唐の高祖)の祖父である李虎の5世孫にあたり、李淵のいとこにあたる長平王・李叔良の孫。
絵画の名手として知られた李思訓の弟・李思誨の子にあたる。兄は李林宗、子に李岫、李?、李嶼、李?がいる。
「真綿に針を包むごとし」と人評され、奸臣の代表とされる。
音律と絵画に通じ、舅の姜皎に深く愛されたと伝えられる。『李林甫外伝』によると、20歳まで書を読まず、狩猟や蹴鞠を好み、
洛陽で休むことなく遊んでいた。しかし、ある日、庫部郎中であった堂叔(父の従弟)のところに赴いて、才能が認められ、
官職についたと伝えられる。
開元14年(726年)、御史中丞として、御史大夫・崔陰甫、同僚の宇文融とともに科挙派の首領・張説の弾劾に加わっている。
その後、刑部侍郎、吏部侍郎を歴任する。
李林甫は表面は柔和であるが、ずるがしこく計算高く、宦官や后妃の家と結んで玄宗の意を探ったために、
奏上することが全て旨にかなったという。そのため玄宗から信頼されたと伝わる。
さらに、玄宗に寵愛を受けていた武恵妃と組み、その子・李瑁の後ろ盾になることを誓ったため、
黄門侍郎に抜擢されたと言われる。開元22年(734年)には、礼部尚書に昇進し、宰相となる[1]。
この時、張説から科挙派の首領を継いでいた張九齢から反対があったため、張九齢と敵対することになった。
しかし、李林甫は張九齢に偽って、へりくだったと伝わる。
その後、戸部尚書、兵部尚書を歴任する。開元24年(736年)には、張九齢、裴耀卿の反対がある中で、玄宗の意を読み、
洛陽から長安への帰還を勧め、実行させる。
また、玄宗が朔方節度使の牛仙客を尚書に任じようとした時に、張九齢が猛烈に反対し、玄宗の怒りを買うことがあった。
李林甫は「張九齢は書生で大きなかたちに通じていません。才能があるなら、学問は必要ありません。
天子が用いてはいけない道理がないでしょう」と、玄宗に語ったといわれる。
その頃、太子・李瑛、鄂王・李瑤、光王・李?が母が武恵妃に玄宗の寵愛を奪われた件で集まって恨み言を言っていたことが露見し、
武恵妃が玄宗に訴えるという事件が起きた。玄宗は宰相を集め、李瑛の廃立を建議したが、張九齢は猛反対した。
李林甫は何もいわず、下がってから宦官に「これは主上の家事であるから、外人に語るところではない」と伝えた。
さらに、張九齢と仲がよかった厳挺之の離縁した妻の夫・王元?の贈賄事件にからめ、
朋党をなした名目で張九齢・裴耀卿の実権を奪うことに成功する。厳挺之は左遷。王元?は流刑となった。
李林甫は中書令を兼ね、牛仙客も宰相となった。これから、朝廷の臣は保身に入り、直言するものはなくなったという。
李林甫は堂々と諫官を集め、「多言する必要はない。杖の側に立つ馬は、一声鳴けば追い出されるであろう。
それから後悔しても手遅れなのだ」と語った。
開元25年(737年)、監察御史・周子諒が牛仙客を宰相の器ではないと、讖書を引き合いにだしたため、
玄宗が怒って周子諒を打ち殺す事件があった。李林甫は周子諒が張九齢の推薦した人物であることを理由に荊州長史に左遷させた。
玄宗は李林甫が口出ししないことを確認した上で、李瑛、李瑤、李?を庶人とし、さらに自殺を命じた。
晋国公に任じられた。この年に律令の改定を行い、「唐律」とその注釈書「疏議」を完成する。
この頃、租庸や防丁、和糴などの毎年の報告を50万枚以上もの書類が要していたものを州ごとに2枚で済むように改変している。
開元26年(738年)、河西節度使を兼ねる。しかし、前年12月に武恵妃が死んだため、玄宗の心は揺らいでいた。
李林甫は李瑁を太子に立てることを勧めたが、高力士が李?を太子にすることを勧めたため、李?が太子となる
。同年、官制に関する官選書「大唐六典」が完成し、注の編集者となっている。
開元27年(739年)、吏部尚書を兼ね文武官僚の人事権を握ることになる。その人事は格式を守った年功序列であり、
才能があっても特別の昇進をすることはなかった。しかし、ずるがしこく立ち回れるものは格別の昇進をしたといわれる。
また、牛仙客とはかり、近隣の税を上げて物資を関中に集め、数年で食糧は豊かとなった。
ために、玄宗が洛陽巡幸をしないですむようになったといわれる。
天宝元年(742年)には右相となり、その後、玄宗の気にいった人物を遠ざけることに腐心し、盧絢、厳挺之、斉澣を
洛陽に追いやり、裴寛を左遷させる。
天宝三載(744年)、玄宗は高力士に「長安を出ずに十年近く、何事も無かった。李林甫に政治の全てを委ねようと思うが」
と問い、反対した高力士が玄宗の怒りを買うほど、信頼を受けていた。
天宝四載(745年)、刑部尚書の裴敦復を左遷。楊貴妃のまたいとこの楊釗や王鉷、吉温、羅希?などを腹心として使い始める
。天宝五載(746年)には、陳希烈が柔和で扱いやすいので宰相にし、全て李林甫が自邸で国事を決することとなった。
同年から、翌、天宝六載(747年)にかけて、李林甫の謀略により、皇太子・李?の周辺の人物や李林甫が嫌っていた
人物を中心が数多く陥れられた。杜有隣らは処刑され、韋堅、皇甫惟明、李?、裴敦復らは左遷させられた上で殺され、
李適之、王?が自殺に追い込まれた。裴寛、李斉物、王忠嗣らは左遷させられている。李林甫のために働いた楊慎矜も
玄宗の意にかなってきたため、冤罪により自殺に追い込まれた。その後も皇太子の引きずりおろしに腐心し、
楊釗らに皇太子に関係する人物を弾劾させ、罪をかぶせられた家は数百家にものぼった。
この年に天下の年の貢ぎ物全てを李林甫に与えられ、玄宗が朝廷に出ない日は、官僚は全て李林甫の自邸に集まり、
役所には陳希烈ただ一人でいる状態となったといわれる。また、玄宗が人材を求めて、
一芸以上に通じるものを集めようとしたが、在野の士が反対勢力になるのを怖れ、厳しく試験するように建言した。
そのため、及第するものは一人もいなかった。李林甫は在野に遺賢がいないことを祝賀した。
李林甫は、節度使の軍功を建てた者が中央で宰相となるものを防ぐために、府兵制の破綻という背景も手伝って、
節度使に異民族出身者(蕃将)を抜擢するようにと、「文臣は将となれば臆病で役に立たない。
寒門や胡人を用いれば、よいでしょう。胡人が勇敢で戦いになれ、寒門のものは孤立して派閥がありません。
恩を与えれば、命を捨て朝廷のために働いてくれるでしょう」と奏上した。
玄宗は同意し、節度使に安禄山、安思順、哥舒翰、高仙芝ら蕃将を用いた。これがのちの安史の乱の遠因となったと言われる。
天宝八載(749年)、咸寧太守・趙奉璋が李林甫の罪を告発したが、告発が届く前に御史に命じて、趙奉璋を殺させた。
また、府兵制の崩壊により、折衝府の軍が形骸化していたため、その魚書を廃止した。折衝府は兵はいない状態となり、
官吏だけになった。
天宝九載(750年)、吉温が権勢が強くなっていた楊釗につき、李林甫にとって代わることが画策され始める。
腹心、刑部尚書・蕭炅、御史大夫・宋渾は左遷させられ、李林甫も救うことができなかった。
だが、この年は符瑞が続き、朝臣の邸宅を道観にして、玄宗の長寿を祝そうと請い、玄宗に喜ばれている。
天宝十載(751年)、朔方節度使を兼ねる。天宝十一載(752年)、朝廷は貴族や大商人らが江淮地方の悪銭5枚を良銭1枚と替え、
長安で使用して民間を困らせているという弊害対策に、国庫から銭を出し悪銭を回収していた。
李林甫はこのとき、悪銭使用を禁じようと、1ヶ月間の回収期間を取り、持ってこないものは罰した。
しかし、商人たちが反対し、楊国忠(楊釗)に訴えたために取りやめになった。結局、元の状態に戻ってしまったという。
さらに、朔方副節度使に任命した突厥の阿布思が安禄山と反目し、反乱を起こす事件が起きた。
また、腹心の王鉷が弟の関係した反乱事件に巻き込まれた。李林甫は王鉷を救おうとしたが、楊国忠・陳希烈の意見が通り、
王鉷は死刑を命じられた。この成り行きを恐れた李林甫は、自ら朔方節度使を辞退することになる。
楊国忠は李林甫が王鉷・阿布思の反乱に関わっていたと誣告し、陳希烈・哥舒翰も同様の証言をした。玄宗はこの時から、
李林甫を疎んじるようになった。李林甫は、楊国忠の主導した南詔討伐が何度も失敗し、楊国忠が剣南節度使を兼ねていたため、
任地に赴かせようとした。玄宗は楊国忠に赴くように促したが、李林甫の病は重くなっており、
玄宗を拝することすら出来なくなっていた。楊国忠は途中で呼び返され、李林甫に会った。
李林甫は涙を流し、楊国忠に後事を託し、死ぬ。太尉、揚州大都督に追封された。
しかし、天宝十二載(753年)、楊国忠は安禄山、陳希烈とともに「李林甫は阿布思と共謀していた」と誣告した。
李林甫の婿・楊斉宣が後難を恐れて証言し、李林甫は官職剥脱のうえ庶民の地位に落とされ、
子の李岫をはじめとする子孫は配流され、財産は没収となった。棺桶は庶民のものに代えられ、
李林甫の党と見做された者も左遷させられた。
「真綿に針を包むごとし」と人評され、奸臣の代表とされる。
ろ
老 子(ろうし)
老子(ろうし)は、古代中国の哲学者であり、道教創案の中心人物。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と
考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、
実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする[2]。道教のほとんどの宗派にて老子は神格(en)
として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。
中国の言い伝えによると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、
複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという
考えなど多様にある[3]。
老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する[4]。
歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている[5][6]。
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